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大連の大広場(『世界地理風俗大系』第1巻、新光社、1930年
石黒夫人の回想の文章は、このように明るく爽やかな印象を受けるが、大連の現実はソ連軍による掠奪・暴行が横行し、一時も気を抜けるものではなかった。じっさい、石黒家にもソ連兵たちが掠奪にやってきた。
 ≪上葭町の家へもソ連兵がついに入って来た。洋子が大連病院に入院中だったので、私は家にはおらず、夫の母と嫂(あによめ)だけの二人きりのときだった。気丈な母はソ連兵を玄関の中まで入れてカメラをすばやく渡した。そのすきに嫂は勝手口から隣家にのがれて事なきを得た。≫(同書、36頁)

  
 正範「母は“二人きり”と書いていますが、実際は僕ら子供も家にいたんです。腕に日本人から奪った時計をいくつも嵌めたロシア人たちがワアーッと入ってきたときは怖かったです。ショックでよく覚えています。
 ソ連軍の戦車があまり広くない住宅街の道まで入ってきたときも、恐怖心でよく記憶しています。真夏でしたから戦車の轍(わだち)がアスファルトの道に5センチぐらいめり込んだのです。子供心にも、ああこれで日本は負けたのだなと思いました。
 海岸に遊びに行ったとき、途中鉄条網が張られてソ連兵が立っており、その向こうには日本人が大勢労働させられているのが見えました。これも僕にとって怖い光景でした。
 怖かったことは、だいたいみな記憶にあります。」

 46年2月のある日、石黒夫人は生れて3ヶ月の武朗さんを背中におんぶして、いつものように香油を売りに行ったが、その帰り危うくソ連兵に乱暴されそうになった。

 ≪大かたの人が降りてしまった終りごろに私はゆっくりと電車の降り口の段を一段降りたとき、草履の鼻緒がプツリと切れた。鼻緒が切れたためよろよろとよろけた。その時私の後ろから降りようとしていたソ連兵の一人が私の腕をつかんだ。支えてくれたのかと錯覚したがそうではなかった。
 私の腕をつかまえ強引に電車の乗務員の詰所のある建物へと、建物の裏口の方からぐんぐん引っ張って行った。幸いその建物は扉は内側から錠がかかっていて開かない。するとそのソ連兵はにぎりこぶしでがんがん叩いて、ガラスを一枚割ってしまった。私は逃げようとしてはつかまり、雪の上に転んでは立ち上がった。私はしきりに片言のソ連語で、
 「赤ちゃんが・・・赤ちゃんが・・・」と背中の赤ん坊が怪我でもしたらという不安で叫びつづけた。
 その兵士は酔っていた。鼻をつくような強い洋酒の匂いを発散させ、赤ら顔が酒呑童子のように恐ろしい形相にみえた。連れの兵士たちが引きとめようとしても、全然聞き入れなかった。まわりを取り巻いていた日本人や中国人たちは、私を助けたいと思っても銃を持っているソ連兵には手の下しようもなくはらはらしながら見ていた。
 扉のガラスの一枚を割ってから一層大声を張りあげて、中に向って「あけろ、あけろ」とソ連兵は野獣のように叫んでいたが、人がいないようによそおってわざと中からはあけなかった。
 皆が心配そうに見守っているうちに、数人いた連れの兵士が、ゲペウ(ソ連の憲兵)を連れてきた。
 ソ連では軍律が非常に厳しかったようで、その荒くれていた酔っぱらいの兵士も、ゲペウの姿を見るやいなや酔いがいっぺんにさめて、急に直立不動の姿勢に戻った。
 見守っていた周囲の人達がほっとして、「今の内に早く逃げなさい」と口々に言ってくれた。私は鼻緒が切れて足袋はだしのままで雪の道を十分くらいかかって上葭町の家へ逃げ帰って来た。
 私の顔にはソ連兵の歯のあとが紫色にあちこちついていて家人を驚かせた。夫が、私の動作に隙があったのだろうというので口惜しくてたまらなかった。≫(同書、39〜40頁)

 赤ん坊を負ぶった母親まで襲うロシア兵の暴虐を前にしても、妻を責めるしかない、敗戦国日本男児のやり場のない無念の思いが、わずかな文字からも伝わってくるようである。

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