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 さて、話を山東行きに戻すと、中共側が日本人の科学者・技術者のなかで、どのような経緯で阿部良之助に白羽の矢を立てたのかはよくわからない。しかし、燃料関係の分野で、阿部の名は中国でもよく知られていたことは確かである。 阿部が中試を拠点に成し遂げた数々の業績については、『満鉄中試会会報』等でお弟子さんたちが顕彰しているところであるが、『招かれざる国賓』の「著者紹介」には、阿部の研究業績が簡潔に記されているので、先ずはそれを紹介しておこう。
 「昭和3年満鉄に招聘せらる。専ら石炭液化の研究、鉄道機関車用過熱汽筒油の合成及びジャライノール褐炭を原料とする木炭化等の研究に従事。これ等の研究は、総て大工業化に成功す。欧米出張2回。石炭液化完成の故を以って、昭和15年度、朝日文化章を授与せらる。」

 阿部は中試の3人の次長のうちの一人であり、また中試の5課――無機化学課・冶金課・有機化学課・燃料課・農産化学課――のうち、もっとも大所帯であった燃料課の課長として、燃料関係一切を取り仕切っていた。
 1月下旬のある日、彼は研究室の5人の幹部を集めて、「中共政府が近く研究所を建てるから、私に来ないかという連絡があった。これは私だけの問題ではないと思う。吾々の進退は、どうしたものであろう?」と相談した。
 5人の幹部は、「吾々が中国の科学なり工業なりに貢献するということは、こんな時代なればこそ意義がある。中共政府が招聘するというならば、吾々は双手をあげて賛成すべきである」と言った。そこで、招聘にいつ応ずるか、また、いかなる形式で応ずるかは阿部に任せるということになった、と阿部は語っている。(『招かれざる国賓』20頁)

 

このとき相談を受けた幹部の一人が石黒正であった。5人の幹部とは、高木智雄・石川三郎・大槻茂寿・岡田寛二と石黒である。
 石黒によれば、阿部が書いているごとく5人の幹部がみな賛同した、というわけではなかったようだ。5人のうち、石川三郎だけは、「相手の実体がよく判らないから、慎重に対処した方がよい」という意見であったという。実際、ほかの4人は山東行きに加わったが、石川だけは参加しなかった。(石黒正「終戦後の大連脱出、山東行きの秘話」『満鉄中試会会報』第26号、平成12年)
 ところで、阿部が山東行きを承諾する代わりに中国側に出した唯一の条件は、「中共政府の責任で、私の家族を、大連から日本に、密航船で帰すこと」であったと『招かれざる国賓』にある。(同書、19頁)
 このことは、帰国後のこの著作において、阿部は初めて明らかにしたようである。彼の誘いで山東行きに参加した後輩や弟子たちの誰一人として、阿部が中共側とこのような密約を交わしていたことを、当時において知っていた形跡は見当たらない。

  
 阿部は、夫人が病弱だったこともあって、家族だけを何が何でも先ず日本に帰そうとしたという。彼自身はこれまでの業績と知名度からして、残留を要請されるのは避けられないとみていた。ただ、もっとも恐れたのは、ソ連のアカデミーから派遣されてきたカベッカ教授が、中試の業績を非常に高く評価したため、まかり間違うとモスコーへ連れて行かれることになるかもしれないと思った。山東行きに気持が動いたのは、それへの恐怖観念があったからである。――これもみな、『招かれざる国賓』において語られていることである。(同書、19頁)

 これは正直な告白、といえば言えるかもしれない。敗戦と同時にソ連軍に蹂躙され、生きて祖国の土を踏めるかどうかまったく見当もつかない異常事態のなかで、密航船を使ってでも家族だけを先に日本に帰そうと考えた日本人がいたとしても、不思議ではない。
 しかし、自ら先頭に立って多くの人たちを山東へと誘い導いた当の人物が、心中に描いていた筋書きは、“山東半島へ渡って自分の家族を密航船で帰国させる”、“モスコー行きはなくなり、チャンスを見て自分も山東から直接日本へ帰る”といったものであったというのは、ちょっと驚きである。

 中国側に留用され残留した人たちの心のうちは、なかなか複雑なものがあり、明快に語られることが少ない。それは多くの人が、残留の大義名分――戦争で破壊された中国を建て直すために残って協力してほしいという中国側の要請――を十分理解できながらも、個人的感情としては、一日も早く祖国日本へ帰りたいという、この両者の狭間で、心が絶えず揺れ動くからである。

 阿部はリーダー的存在でありながら、家族および本人の帰国実現に固執した。その後に起こった国共内戦で、科学研究所の建設が困難になり、彼の目論んでいた筋書きが実現しそうもないと見ると、強引に帰国を要求し、中共側と対立することになった。そして、この山東行きをたいへん不幸なものにしてしまったのである。そのことは、経緯を追うにしたがって、自ずと明らかになるであろう。

 さて、太華公司の呉宗信は阿部の出した条件を呑み、彼の家族を3月15日ごろ大連発の密航船で日本に送り届けると約束した。
 ところが、3月15日は25日に延び、25日が来ても、どういうわけか出発できない。呉は公司所属の船がシケのために破損して、大連から直接日本に密航できなくなったことを告げた。そして、いったん山東半島の芝罘(チーフ、煙台)まで行ってそこから密航船で日本まで送り届けるという、新たな提案を呉は出してきた。阿部は結局それに同意した。(同書、20〜23頁)

 中試を去るにあたって、同僚はもちろん、所長の丸沢常哉にも、阿部は一片の挨拶もしなかった。ただ、4月18日付けの辞表だけを認め、後日それを中試に届けてほしいと呉宗信に託したという。(しかし、結局その辞表も届けられなかった。)
 4月18日、阿部の家族は全員中国人になりすまして大連港から発っていった。

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