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 井口は、事前に太華公司の呉宗信を阿部から紹介されたが、呉は山東行きのことにはまったく言及しなかったといい、また阿部から手紙をもらったが、「内容は、私たちの夢想だもしなかったことで、・・・事の意外と重大さに息を呑んだ」と語っているところからすると、事前にはこの計画をなにも知らなかったかのようである。
 しかし、手紙が井口と高木宛に出されているということは、山東行きを取り纏めてくれるもっとも頼れる人物として、二人を選んだにちがいあるまい。そのような取り纏め役を頼むのに、事前に何の情報も提供していないということは考えられないことである。実際、井口は山東へ渡る32名の技術者たちのリーダーとなるのである。

 井口が主任を勤めた「一般有機化学研究室」では、ほかに佐竹義継、渡辺勅雄、鐘ヶ江重夫の3名が山東行きに参加している。
 そのうちの鐘ヶ江重夫は、山東に渡った中試の技術者のなかではもっとも若く、数少ない現存者の一人である。鐘ヶ江は、敗戦から一年はまったく無為の生活で、早くこの環境を脱したいと思っていたとき、主任の井口から声がかかったので、山東行きに参加することにしたという。
 そのときのこととして、鐘ヶ江は筆者に意外なエピソードを語ってくれた。井口は山東行きを勧める際に、「一年後には山東から日本に帰国させる」と語ったそうである。

 井口の「ダモーイ」には、山東行きを前にして“帰国”云々を仲間うちで議論するような話は一切出てこない。しかし、鐘ヶ江の証言からすると、どうも山東行きは帰国と結び付けられて、彼らのあいだでは話題にされていたようだ。

 井口は、母と妻、幼い子供4人、計6人の家族を抱えての山東行きであった。一日も早い日本への帰還を願っていたとしても不思議ではない。後に彼は、内戦のため科学研究所の建設が無期延期となったとき、中共に対し阿部とともにいち早く帰国要求を突きつけた。
  
 どうやら、この計画の中心になった阿部と井口の二人は、共に家族のことが大きく作用し、当初から山東行きを帰国と結びつけて考えていたようである。

 さて、阿部からの手紙を受けて、所員たちはどのように行動したのか。井口俊夫と佐竹義継がそれぞれ大連脱出前後のことを語っている。
 佐竹によると、決行日までのあいだ、彼らは大連市の喫茶店「南風堂」を買い取り、そこに所員たちが所蔵している図書を運び込んで表向きは古本屋を開業し、同志たちの集合所を2階につくって、そこで計画を練ったという。(『貧しい科学者の一灯』70頁)

 その古本屋の2階で、どのような議論が交わされたのか、「ダモーイ」から引いてみよう。

 「3日後に、書店の2階に幹部10名を召集し、中共行きについて皆の意見を徴したが、大約次の二つに対立して了って、一致を見ることが出来ない。
 一つは、どの企業も折角順調に運営されており、生活にはちっとも困らないのだから、敢えて危険な脱出などやらなくても良いのではないか、という意見である。
 他は、生活に困らぬから行動を起こさぬというのは、敗戦根性であって情けない。我々は祖国再建の一翼を担うという意味で、知能の保持と開発のためには、万難を排して突進すべきではないか、という意見である。
 室の隅々には、書籍がうづ高く積み上げられており、熱気は室に満ちて汗が滲み出てくる。私は最後に決然と口を切った。
 『どちらの意見もそれぞれ意味深長であり、何れが正しい判断であるか、にわかに断定し難いと思う。しかし、私は身命を賭しても、脱出を敢行するから、同志の者は行動を共にしてもらいたい。その他の者は、留守部隊として企業を継続してもらうと共に、我々の脱出を極力援助して欲しい。』」(「ダモーイ」第5回)

 「どの企業も順調に運営されている」と語っている「企業」とは、給料がストップしてしまった中試において、所員たちが街頭に進出し、あるグループはDDTの製造に当たり、あるグループは石鹸工場を操業し、またあるグループはマッチ工場を運営していた――それらのにわか作りの工場を指しているのである。

 ところで、石黒家において夫から夫人にこの山東行きが話されたのは、何月ごろのことであったのだろうか。石黒夫人の著書には、月日ははっきり書かれていないが、初めて話を聞いたときの興奮を次のように語っている。

 ≪夫は全く予期しない話を切り出した。「誰にも話してはいけない」と口止めされて――。
「大連を脱出して、山東に渡ろうと思う。山東は中共の統治下である。文化は遅れているが、安心して働かれるところらしい。技術者を集めているので、思いきって参加しよう」と、夫は興奮した口調で、さまざまな細かな実話を交えながら、希望に溢れた声で語った。
  思いがけない話であった。私はぼーっと夢を見ているような気持に誘いこまれた。家族揃ってその土地へ行こう、となんのためらいもなく私の心はしだいにその土地へと傾いていった。私には、その土地がすばらしい桃源郷のように思えた。
   しかし、年齢の差がある夫の母の表情は憂愁を帯びていた。(中略)
    絶対に口外してはならぬこと――。数日後に人々が寝静まった夜中、両隣にも気付かれないように、そーっと荷物をまとめてこの家から離れなければならない私たち一家であった。
     その秘密がいつの間にかおとなりの奥さんの耳に入ってしまった。庭先で母の独り言がお隣りに洩れたのかもしれない。おとなりの奥さんが嫂(あによめ)に、
     「お宅・・・どちらかへ行ってしまわれるの?」と怪訝そうな顔で聞かれた。
  「いいえ、そんなことありませんわよ。どうして?」
  「お宅のお母さまが、そのようなことを、ちょっとおっしゃっていたようだけど・・・」
   嫂はびっくりして、家に入るなりこのことを告げた。香油製造中の夫と夫の兄は、はっと表情をこわばらせた。
  「女は口が軽い! 何ということを・・・。このことが外部に洩れたら、大変なことになるぞ。仲間の人たちにも大変な迷惑がかかるのだ」と、びっくりするほどきびしい顔で母に注意をした。気性の強い母であるが、この時ばかりはすっかりしょげてしまって、慰める言葉もなかった。
  憂愁ふかい母にひきかえ、私の心は若いせいもあってか日々心はずむ思いであった。≫(『北斗星下の流浪』45〜47頁)
 
 ところで、大連港からの出入りは、ソ連軍の進駐とともに厳禁となった。ヤマノフ少将が大連に進駐した翌日出した布告には、「船舶の大連港出入を禁止し、在港船舶は碇泊所に繋留して船員を上陸させる。ただし、漁船の出漁は許可する」とあった(『満蒙終戦史』175頁)。
 
 つまり、漁船以外の一切の船舶は大連に入ることもできなければ、出ることもできないというのである。密航は、もしソ連軍に見つかればその場で射殺されかねない命がけの行動となる。家族を抱えてとなるとさすがに尻込みし、計画から脱落して行く者もあった。

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