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 「宅見」は工静男であろう。彼も井口と同じ有機化学課の所員であったが、農産化学課の所員であった妻・良子と共に山東行きに参加している。
 井口は、佐藤から「君は関屋君の人柄をよく知っているのかネ?」と言われた言葉を、その後山東へ行ってから思い出さされることになる。
 
 5年間中試の所長を務めた佐藤正典は、大豆油の世界的権威であり、満洲の化学工業を統括する化学工業委員会の委員長でもあった。日本人の引揚げが日程に上ってきたとき、中共系の大連市政府から、佐藤に対して強力な残留要請があった。しかし、丸沢常哉は当局と掛けあって、1947年3月の第一次帰国船で佐藤を帰国させた。丸沢は佐藤に対し、「あなたの人脈を生かして、満鉄技術者たちに帰国後の就職先が見つかるように尽力してほしい」と依頼、帰国後佐藤は立派にその使命を果たした。佐藤には『一科学者の回想』(私家版、1971年)があり、本編でもあとで引用する。なお、佐藤は石黒夫人の『北斗星下の流浪』に序文を寄せている。
 
 山東への脱出行には加わらなかった所員の一人広田鋼蔵が、晩年の著書でこの事件に言及している。

 「昭和21年4月のある日、中試3次長の一人阿部良之助が家族もろとも大連から姿をくらませた。彼は丸沢にも辞表を提出しなかったので、いわば脱走であった。そこでエゴロフは立腹し、解雇の掲示を玄関に張り出した。
 ところが7月27日、井口俊夫、緑川林造、佐竹義継、高木智雄、宮原泰幸らの旧主任を含む所員と所員外の技術者あわせて32人がそろって、またもや大連から姿を消した。いずれも秘かに山東へ渡ったのだった。このことは同行を誘われたが断った所員の口から分かった。」(広田鋼蔵『満鉄の終焉とその後――ある中央試験所員の報告』青玄社、1990年)

 

終戦から2月あまりたった10月末から、中試は、ソ連と中国の共同経営会社である中国長春鉄路大連局の管轄化に入り、白系ロシア人のエゴロフ教授が管理官として取り仕切っていた。
 丸沢常哉は、中試の所長を1936年から40年まで務め、後任を佐藤正典に譲ったが、終戦の年の6月、佐藤が満鉄本部の「化学工業委員会」の委員長に起用されたため、佐藤に代わって再び中試の所長に就いた。丸沢は、所長就任2ヶ月で終戦を迎えたわけだが、ソ連軍進駐後も所長として管理運営を命ぜられ、エゴロフの監督下で中試を運営していた。

 丸沢は、日本敗戦後、これから自分たちのやるべきことは、日本人がこの地で築き上げてきた財産・蓄積を中国側に引渡すことであると決意し、自ら残留を買って出て、10年間中国に留まった。そして、中国への施設の引渡し、研究蓄積の整理と引継ぎを果たして、1955年に帰国した。明治18年生れの丸沢はそのときすでに70歳になっていた。中試の元所員たちの丸沢に寄せる敬意と信頼には絶大なものがある。

 丸沢は、帰国後、戦後の中国での体験を書き下ろした一書を出版したが、この失踪事件について言及してはいるものの、淡々とした筆致で事実だけを記している。
 「この年、中試所員の失踪事件が2回起こった。第1回は4月ごろ燃料部長の阿部良之助博士および同部員二十余名が突然失踪した事件で、彼等は山東省方面に家族と共に脱走したのである。また第2回は数ヶ月おくれて、有機化学部の井口俊夫博士および無機化学部の緑川林造博士等十余名が脱走して、阿部博士に合流した事件である。エゴロフ管理官は失踪者全部を解職処分に附し、玄関入口の掲示板に公示した。燃料部長の後任には根岸良二博士が任用された。」(丸沢常哉『新中国生活十年の思い出』私家版、1961年、後改版『新中国建設と満鉄中央試験所』二月社、1979年、44頁)

 ここには、4月に阿部とともに二十数名が脱走したように書かれているが、これは他の人たちの証言からみて、丸沢の記憶違いと思われる。4月には、阿部だけが単身で脱走したのである。
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