ところで、玲瓏金鉱を戦前に経営していた日本の会社を、石黒夫人は三井と書き、井口は住友と書いているが、正しくは阿部の『招かれざる国賓』にあるように、三菱鉱業が経営していた。
中国語文献に見える玲瓏金鉱の歴史によれば、日中戦争開戦から1年半余り後の1939年2月27日、日本軍小川部隊が傀儡軍劉桂堂軍と組んで招遠を占領、その翌日、玲瓏金鉱を占領した。最初に金鉱の経営に当ったのは、鬼怒川鉱業であったが、すぐに経営が行き詰まったため、国策会社・北支那開発会社が乗り出してきて、三菱鉱業との合弁をはかり、「山東金鉱開発組合招遠鉱業所」を設立し、実質的には三菱鉱業が経営する形で終戦まで来たという。(「玲瓏金鉱――山東民族資本企業発展の縮図」『大衆日報』2009年3月12日)
『三菱鉱業社史』には、北支那開発会社という名称は登場せず、1939年11月4日、三菱鉱業と鬼怒川鉱業とのあいだに、三菱側5割5分、鬼怒川鉱業側4割5分の出資比率で共同経営する覚書を締結したとある。
社史によれば、1940年から操業に入り、4箇所の坑口を設けて銅の精鉱、硫化鉄の精鉱を産出したという。そして、これら精鉱は龍口まで運び、そこで船積みして香川県の直島精錬所に送鉱した。直島で主として亜鉛、銅を製出し、さらに大阪精錬所で金、銀を製出した。
ついでに、玲瓏金鉱の今日に言及すれば、現在周辺の鉱山も含めて「山東黄金集団有限公司」という会社となり、そのなかで玲瓏金鉱は従業員4100人を擁し、アジアで一番大きな金鉱として、金の生産高は23年連続して国内第一位を占めているという。
戦前、この金鉱で働いていた日本人に、『北京三十五年』(上下、岩波新書、1980年)の著者・山本市朗がいる。山本は三菱鉱業の社員として、尾瀬の金山で勤務していたが、1944年、この玲瓏金鉱に配属されてきた。終戦まぎわ、北京事務所に出張し、そのまま北京で終戦を迎え、玲瓏金鉱に帰って来ることはなかった。もし、彼が北京に出張することがなく金鉱に留まっていたならば、あるいは阿部良之助たち技術者一行と遭遇していた可能性もある。山本は中国残留を自ら選択し、日本に帰国しなかった少数の日本人の一人で、『北京三十五年』は彼が70歳のとき、北京で執筆した自伝である。
戦中の中国華北地域で、日本が経営していた鉱山とか炭鉱には、日本軍の守備隊が駐屯して、八路軍の警戒に当たっているところが多かった。玲瓏金鉱にも日本軍一個中隊が駐屯していた。
守備隊と背中合わせに暮らしていた山本市朗によると、玲瓏金鉱のこの日本軍部隊は実に弱体であったらしい。
「『八路討伐』と称して、のこのこ附近の村へ出かけていくと、いつでも八路軍の遊撃隊にさんざんたたかれて、ほうほうの体で逃げかえってきた。一個中隊といっても、兵隊は60人ちょっとしかおらず、おまけに、ほとんどが応召の老年兵であった。(中略)
討伐に出て受けた損害は、守備隊ではひたかくしにかくしていたが、実際の戦闘を自分の眼で見、耳で聞いた住民の口コミで、その敗戦の模様は、その日のうちに全県へひろまってしまうのであった。」(『北京三十五年』上、20〜21頁)
阿部良之助が玲瓏鉱務局の王局長から聞いた話では、終戦と同時に、日本軍の守備隊に対し、八路軍から申入れがあった。――「金鉱の設備を破壊せず、八路軍に渡すならば、日本居留民並びに日本軍の引揚げを、八路軍は絶対に阻害せず」と。守備隊長はこの八路軍の申し入れを受諾し、居留民は一人の事故もなく、船で日本に帰ったということである。
さて、阿部たち日本人技術者が玲瓏に来て驚いたのは、すでに4人の日本人の先客がいたことである。先に一人で山東に来た阿部は、この4人の日本人のことを何も聞かされることなく金鉱にやってきたが、彼らに出会ったときの驚きを、次のように述べている。
「金鉱に着いた日であった。その夕べ、遠くではあるが、下手の方から、
『孤灯の下に 襟正す・・・天地寂たる ただ中に 泣きても慕う 世々の跡』
母校の校歌が、聞えるではないか! なつかしい若い日のリズムが、この山東の山奥でどうして聞えるのであろう? 私は、始め耳を疑ったのであった。
日本人が居る! 二高出が居る!」(『招かれざる国賓』62頁)