logo

オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料

インタビューリスト


 
 阿部は仙台の二高から京都大学に進んだが、先客の日本人のなかに二高出身者がいたのである。彼らと対面して話を聞いてみると、そのうちの3人は、湖南作戦に参加した元軍人たちであった。彼らの部隊は、終戦後、日本人居留民を保護しつつ青島に向って進んでいたところ、一個中隊が八路軍に包囲されてしまった。中隊長は兵士たちに犠牲者を出すに忍びず、八路軍に投降した。そのときの中隊長が阿部の前にいる4人のうちの1人で、名を松本敬信といい、二高の卒業生であったのである。彼は二高から北大の採鉱科に進んだため、その経歴からここに連れてこられてしまったという。
 
 あと3人のうち、山口伍長、佐藤一等兵の2人は、松本の中隊にいた。もう1人、年配の川口は、膠済線の食堂車を経営していたが、かつて朝鮮で銅冶金をやった経験から、自ら志願して玲瓏金鉱にやってきたという。
  彼らは、1946年3月ごろ、3ヶ月という約束でこの金鉱に来たのだそうである。そして、このメンバーも、大連からやってきた技術者たちに合流することになった。大連組はこの4人のうち、年配の川口を「老川口」、小柄な山口を「小山口」と呼ぶことにした(井口の「ダモーイ」では、「老川口」を「老山口」、「松本」を「杉本」としているが、本編では阿部に従って「老川口」「松本」としておく)。

 金鉱にやって来たものの、日本人技術者たちは到着して一月あまり何もなすことなくぶらぶらと日を送ることになった。『招かれざる国賓』を見ると、なぜこんなことになってしまったのか、その間の事情が分かる。

 4月に山東に到着した阿部は、中共側の責任者たちと研究所の建設場所や日本人技術者招聘の条件等について相談をはじめた。ところが、彼の最大関心事である、煙台(芝罘)に着いたら家族をすぐに密航船で日本に送ると約束していたはずのことは、いつまでたっても実現されない。彼の中共に対する不信感はこのあたりから芽生えはじめたようだ。

 科学研究所の建設場所については、出発前から煙台が有力候補であると聞いていたが、来てみると、煙台は国民党の艦船がやってきて危険になっており、中共側はそれ以外にも候補地を考えていた。阿部は中共側の担当者とともに共産党政府のある莱陽(らいよう)を訪ねたり、研究所建設の一候補地である玲瓏金鉱を訪ねたりしていた。

 今回の科学研究所建設の最高責任者は延安からやってきた陳康白博士である。阿部が陳博士とともに莱陽の政府を訪ねたときには、日本人技術者の招聘の条件を政府の幹部も交えて話し合った。阿部によると、各自の給与は大連の給与の2倍を支給する、給与金のほかに一人当たり白米を月22斤支給、そのほか燃料・食糧油も現物支給するというような条件を中共側が提示した。阿部は彼が選んだ中央試験所の所員69名の名簿を中共側にわたし、交渉は順調に進んだ。

 研究所の建設場所としては、煙台にある元フランス人の建設した建物で今は蚕糸場として使われているところを見せられ、阿部はたいそう気に入った。

 「全体として非常に変化に富み美しい。路傍には、桜桃や桑の実が枝もたわわになって居る。まるで、花園や果樹園のなかに化学実験室を建設するようで、私は嬉しくなってしまった。」(以上、『招かれざる国賓』46〜57頁)

文字サイズ
文字サイズはこちらでも変えられます


お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ



Copyright (C) 20072009 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.