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 この会見の結果は、翌日日本人技術者たちに伝えられた。
  「私に対し、ごうごうたる非難が日本人間に起こったことは当然である。中国共産党の人民に対する、不信義は不信義として、なんと言っても、日本人に対する全責任は、私に在る。」(以上、同上書、95〜98頁)

 井口も、この陳博士との面会のことを語っている。

 「彼(陳博士)の話は、張りつめた心で、この山奥にやって来た日本人達に異常なショックをもたらした。誰言うともなく、今回の計画は、関屋さんが、自分の家族達を日本へ帰すために仕組んだ大芝居だという声が流れ出した。そして、直ぐ大連へ総引揚げを要求しろ、という意見が持ち上がり出した。
 関屋さんは全く辛い立場に追いやられてしまい、事実の釈明にやっきとなり、総引揚げ案の鎮圧に努めた。
 私も、一度堅い決意の下に脱出までした大連へ、おめおめと引返すことは反対であり、又日本人達の足並みの乱れることも憂慮して、ひたすら関屋さんの立場が好転するように、皆の説得に協力した。」(「ダモーイ」第7回)

 井口は、一行を纏めてここまでやって来たリーダーの立場として、阿部に対して同情的で、何とかして彼を守ろうとしている。
 阿部は阿部で、彼の中共に対する不信感は、ここへ来て決定的なものになった。彼は激しい言葉で中共への非難を書き付けている。

 「この中共の不信義的態度は恐らく陳個人の意志ではあるまい。莱陽政府の意志であるかも知れない! 或いは中共政府が、敗戦国日本の技術者を、招聘の美辞によって奴隷とする、初めからの計画だったのかも知れない。
 私は、一瞬戦慄と憤怒をおぼえた。」(『招かれざる国賓』97頁)

 こんなことになってしまった最大の原因は、次章以下で述べるように、国民党と共産党のあいだで成立していた停戦協定が完全に破綻し、内戦がふたたびはじまったからであった。しかも、山東半島はその最前線になりつつあったのであるが、これは科学研究所建設を決めた中共側の当事者たちにも予想外の進展であったようだ。
 しかし、彼らは日本人技術者たちにそういった国内の情勢を、「内戦のため」という以外に一切説明しなかった。招聘者たちはツンボ桟敷に置かれたうえ、約束したはずのことまで約束していないという強弁を聞かされるにいたっては、中共に対する心証はいっそう悪くなるばかりであった。

 このあと、内戦は中共にとって一時ますます不利な方向へ行き、阿部たちにしてみれば、当初の約束とは程遠くなる一方で、彼は前にも増して中共への批判を強めてゆく。

 『招かれざる国賓』は、昭和24年5月に刊行されているが、かつて中試で同僚であった広田鋼蔵は、刊行当時の本書の反響について次のように書いている。

 「同書は中国共産党の政治批判の目的で執筆されているが、発刊当時はまだ新中国成立直前である。(中略)当時において同書は日本共産党批判の資料としてベストセラーになった。」(広田鋼蔵『満鉄の終焉とその後――ある中央試験所員の報告』79頁)

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