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山東半島に渡った満鉄技術者たち 第10回

9 山東半島における内戦勃発の前夜

 日中戦争の時期、中共は自ら統治している地域を「解放区」あるいは「抗日根拠地」「辺区」などと呼んでいた。八路軍の活動が活発であった華北・西北には、日本軍とのゲリラ戦で勝ち取って解放区とした区域があちこちにあったが、その中でも山東省と熱河省は、省のほぼ全域を中共・八路軍が支配していた。
 日本の敗北が明らかになった1945年8月13日には、早くも中共は「山東省政府」の成立を宣言し、9月11日、臨沂(りんきん)に正式の政府を発足させている。科学研究所の建設場所を山東省に決めたのも、こうした背景があった。

 日本の降伏と同時に満洲国が解体すると、延安の中共中央は満洲(東北地区)において勢力固めを図るべく、八路軍および新四軍の部隊を北上させる方針を打ち出した。(注;日中戦争中の中共軍は、華北・西北にいる部隊は「八路軍」に編成され、華中・華南の部隊は「新四軍」に編成されていた)。
 東北は長いあいだ日本の支配下にあったが、いまや中共と思想的共通性をもつソ連が占領している。ソ連は終戦前日の8月14日、蒋介石の国民政府と「中ソ友好同盟条約」を結んだが、国民党の勢力はまだ東北に到達していない。国民党軍が北上してくる前に、東北をがっちり固めてしまおう、というのが中共の戦略であった。

 終戦から1月経たない9月11日、延安の中共中央が山東分局に発した電報が残っている。

 「国民党およびその軍隊が東北に到達していない(恐らく短時間内の到達は不可能)時期を利用して、迅速に我々の東北における地歩を固めよう。中央は山東省から4個師12個団、2万5千から3万を海上経由で東北に入れることを決定した。肖華を統一指揮官として派遣する。
 我が軍は東北に入って活動する際には、目立たないように努め、八路軍の名を出さないで、東北義勇軍あるいは東北その他の地方軍の名を用いること。・・・ソ連赤軍に対しても八路軍あるいは共産党の名を用いて公式の交渉をすることはしない(非公式の交渉は可)で、地方軍及び大衆の立場でソ連赤軍と交渉すること。」(中央档案館編『中共中央文件選集』1991年)

 この電報の後半で、東北では「目立たないように努め」、「八路軍の名を出さない」で「地方軍の名を用いる」ようにと指示し、ソ連軍に対して「八路軍の名を用いて交渉することはしない」ようにと指示しているのは、前述した「中ソ友好同盟条約」締結の情報を入手したからである。中共は、ソ連が満洲(東北)にどのような形で進出するのか、また国民党とどういう関わり方をするのか、正確なところがつかめず、その出方を慎重に見極めようとしていることが、この電報からもうかがえる。

 8月14日に締結された中ソ友好同盟条約のなかみは、ソ連が日本との戦争に参戦する代償として、日露戦争前、帝政ロシアが中国で持っていた権益をそっくり回復しようとする要求であった。中国にとっては、外モンゴルの広大な地域の主権を失うことになるうえ、大連や旅順におけるソ連の特権的使用を認めてしまう屈辱的なものであった。
 このような条約に、蒋介石・国民政府が署名したのは、ソ連側が国府に対して、「ソ連は精神的支持と軍事的援助とを中国の中央政府たる国民政府に対してのみ与える」「満洲の主権は中国が持つ」と正式な交換公文で約束したからである。しかも、ソ連は、日本降伏から3週間以内に満洲からソ連軍を撤退させる、万一長引いても3ヶ月以内には撤退を完了させる、とも約束した。国民党にしてみれば、ソ連は長くて3ヶ月で出て行ってくれる、そのあと中共と満洲で争いが生じることになっても、これだけ確かなソ連の保証があれば、自分たちがこの地を占領する非常に有利な条件になると見たのである。

 

ところで、さかのぼって1931年、日本が満洲事変を起こすと、満洲では中共指導下に「東北抗日聯軍」の組織が形成され、日本の支配に徹底した抗争が繰り広げられた。一方、蒋介石・国民党はこの時期満洲には一兵卒も送らなかった。孤軍奮闘した抗日聯軍は、関東軍、満州国軍の厳しい弾圧で、組織はほとんど壊滅させられ、残存部隊はソ連領に逃げ込んだ。

 1945年8月9日、ソ連軍の電撃的満洲進攻のとき、これら抗日聯軍の残存部隊がソ連軍の先導の役割を果たすのである。彼らはソ連領に逃げ込んでからも、何度も越境して、関東軍陣地の見取り図を作成していた。もっとも激戦となった牡丹江付近におけるソ連第1極東方面軍と日本関東軍第1方面軍との衝突では、彼ら元東北抗日聯軍の兵士たちは、ソ連軍の偵察隊あるいは先導隊として再び満洲の地へ帰ってきた。このとき、東北抗日聯軍は名前を「抗日聯軍教導旅団」と改めて、再組織されていた。
 教導旅団は周保中が旅団長として指揮をとったが、この組織には金日成をはじめ朝鮮人が半数近くを占めていた。金日成らは、日本の降伏後、北朝鮮に帰還し、ソ連軍第25軍の支援を受けて、新政権を樹立する。
 教導旅団の幹部メンバーは、ソ連軍によってハルビン、吉林、延吉、チャムス、長春、瀋陽、チチハル、大連と8主要都市へ空輸され、日本軍との戦闘に先導的役割を果たした。旅団長の周保中は、ソ連軍の総司令部がおかれた長春の衛戍司令部のなかで、副司令の地位を与えられ、ソ連軍の軍服を着て日本軍との戦闘の指揮をとった。
 周保中らが、延安の中共中央と連絡がつくのは、終戦から1月後の9月中旬のことである。10月下旬、中央からやってきた林彪、彭真らのもとに、周保中らの部隊は「東北人民自治軍」として再編され、それ以後延安の中共中央の指導下に入っていく。


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