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インタビューリスト


山東半島に渡った満鉄技術者たち 第11回

10 アメリカの調停工作の失敗

 アメリカは、戦後の東アジアの政治地図として、日本が再たび台頭してくるのを抑えるためにも、中国になんらかの形で民主的な政権が生まれ、それが東アジアの安定勢力になることを期待していた。本国政府や中国駐留米軍のあいだで、多少の意見の相違はあったものの、「国民党のリーダーシップのもとに中国の統一を図る」、「国民党をできるだけ支援するが、共産党との対立が内戦に発展することは極力回避する」、「アメリカが中国の内戦に地上軍を派遣したりすることはしない」とする点では大筋だいたい一致していた。
 中国駐留の米軍総司令官・ウェデマイアー中将の次の会見談話は、なぜ米軍が中国に駐留し続けるのか、中国の内戦にどういう関与をするのか、という連合国の記者の質問に答えたものであるが、アメリカの大体の姿勢が窺える。

 「米軍は中国における内戦に捲き込まれないだろう。しかし米陸軍省からの指令で、米国人の生命財産を保護するために軍隊を使用する必要があり、余の麾下司令官にはその旨指令してある。
 米軍が中国の内戦に参加し、中共軍に対し攻撃を加えているといった向きもあるようだが、これまで米軍がかかる侵略的行為に出たことはないことを断言する。
 余はこれまで個人的に国共が妥協するよう極力努めてきたし、部下にも中国の政争や陰謀画策に参加しないよう命令していた。」(『朝日新聞』1945年11月12日)

 アメリカの駐中国大使ハーレーは、大戦の集結する数ヶ月前から、ソ連、中国と米本国の間を精力的に往復し、スターリンやモロトフと会ってヤルタ密約に基づくソ連側の要求を聞き、蒋介石にソ連との友好条約の早期の締結を勧めた人物である。
 彼は、大統領の了解のもとに、国民党と共産党のあいだの調停工作を水面下でとりもっていたが、終戦から2週間たたない8月28日、自ら延安まで出向いて毛沢東・周恩来を国民政府の臨時首都である重慶まで連れてきた。これによって、43日間におよぶ国共間のトップ会談が実現した。
 長い会談の継続中、ハーレーはワシントンに帰り、次のような主旨の報告をした。

 「○ 彼らは、中国の再建と内戦の防止のため、中国に民主的な立憲政府を建設すべく互いに協力することに同意した。
 ○ 双方は共和国の元首として蒋介石の指導権を支持することに同意した。
 ○ 共産党は、国民党を現に政府を支配しつつある優勢な政党として認め、かつ現在の政府形態から民主統治に移る過渡期中は、その党に協力することに同意した。」

 これだけ見ると、国民党・蒋介石のもとに民主的な政府ができ、共産党がそれに協力するという、アメリカが描いた理想的筋書きが実現する方向にむかっているかのようである。

 しかし、ハーレーは両者のあいだに次のような不一致点があるとも報告している。

 「第1点は、共産党が一定の省においては、共産党員の省長、市長などの任命、選挙、選抜の権利ありと主張している。国民党は、民主政府が樹立されるまでは、行政長官と官吏の任命大権は国民政府の元首に付与されていると主張している。
 第2点は、どれだけの数の中共軍を国家の常備軍として編入すべきかに関して、共産党は初めは48個師団を保持すると主張した。国民政府は、常備軍全体を80ないし100個師団で編成しようとしている。それからすると、共産党は20個師団が妥当なところであると主張した。」

 

こうした不一致点はあるけれども、双方は歩み寄りのための努力をしており、結論として、「中国の二つの指導的な政党の和解は、進行しているように見える」とハーレーは明るい見通しを語った。(以上、アメリカ国務省『中国白書』朝日新聞社、1949年)
 10月1日には、蒋介石と毛沢東の会談で、11月に各政党の代表を集めた政治協商会議を召集することを決めた。
 10月10日、双方は先の2点(中共支配下の省長、市長の選出問題と常備軍に編成する軍隊の師団数)において意見が一致するに至らなかったが、その他の点で合意に達した協約書を公表した。このなかでは、なんと言っても11月早々に政治協商会議の召集を謳っていることが国民に希望を与えた。

 しかし、日本軍の武装解除については、その権限をめぐって国共双方はあちこちで軍事衝突を起こしており、重慶会談が行なわれている間にも、山西省では国共間で大規模な武力衝突が起こっていた。また、中共支配下の「解放区」における政治権力をめぐっても、双方は絶えず対立し衝突していた。
 それだけではない。アメリカ政府やハーレーにとって事態が思わぬ展開になってしまったのは、国民党側に有利なように進めてきたはずの調停工作が、いつの間にか国民党にとって挽回不可能なほどの事態になってしまっていた。彼らアメリカ人の目には、両者が戦えば、国民党に到底勝ち目はないように映っていたのである。まさに、前章末尾で紹介したウェデマイアー中将の悲観的な見通しが、多くのアメリカ人関係者に共通の認識となってきたのである。

 11月に開催予定であった政治協商会議は無期延期になり、和平の期待は遠のいてしまった。ハーレー大使は調停工作が失敗に終わったと見て、11月27日、トルーマン大統領に辞表を提出し帰国してしまった。


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