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山東半島に渡った満鉄技術者たち 第15回

15 玲瓏金鉱を撤退

 1946年11月、国府軍はついに膠済線を越えて東側つまり山東半島の先の方へと進攻してきた。
玲瓏金鉱のある招遠のあたりも危なくなってきた。阿部の著書によると、11月5日、陳博士がやって来て次のように語った。

 

「実は、国民党の軍隊が、平度の附近まで攻めて来ました。一方、維県が国民党の手に陥ちそうになっています。どちらも、此処から五、六十里(四十キロ)の処です。若し、平度、維県の二要衝が敵の手に陥ちれば、招遠の陥落は時間の問題です。ただ今、莱陽政府から命令が参りました。『玲瓏公司は、即刻作業を停止して、退避準備をなせ』との事であります。吾々は最後まで此処に残留しますが、『日本人技術者は、直ちに最も安全なる地帯に退避せしめよ』との指令であります。御用意願います。」(『招かれざる国賓』117頁。)

 『山東省志・大事記』をみると、1946年11月上旬の項に次のような記述が見える。

 「山東軍区の膠東、魯中、渤海軍区の部隊は、解放区へ侵犯してくる国民党軍に対して反撃を加えた。11月1日から2日にかけ、膠東軍区の平度南部における阻撃戦において国民党第54軍2900余人を殲滅した。5日から10日にかけ、掖(えき)県での保衛戦において国民党第8軍4800余人を殲滅した。」

 阿部のいう11月5日という日付は、『山東省志』の記述とほぼ符合する。ただ、省志にいう「平度」「掖県」が、阿部の著書では「平度」「維県」となっている。しかし、「維県」という地名は山東省には見当たらない。「掖県」は、陳博士が言った「招遠から五、六十里の距離にある」という場所に位置している。どうも、阿部の著書にいう「維県」は「掖県」の誤りではないかと思われる。

 なお、中共の歴史書は、敵側の損失のみを記し、自軍の損失は記さないから、いつも中共側が勝利をしているようにとれてしまう。戦闘が実際にどのように進行しどちらが優勢であったのかは、中共の歴史書からは分からないのである。

 さて、阿部たち日本人はどう対応したか。彼はその日、「全日本男子」の集合を求めて、各自の意見を聞いた。

 「その時の結論は『逃げ廻ったって仕様がないだろうから、吾々日本人は、此処に、このまま残してもらい度い』と云う事であった。口では云わないが、国民党の軍につかまって、あわよくば、日本に帰るチャンスをつかみ度い。之が、全日本人の心の底の叫びであったであろう。」(同上書、118頁)

 井口もこのときのことについて、阿部と同様のことを書いている。

 「『もう戦争はたくさんだ。しかも、他国の戦争に巻き込まれて、逃げ回る必要がどこにあろう。我々はあくまで中立を守って、この玲瓏に残留しようではないか』という意見が圧倒的であった。」(「ダモーイ」第9回)

 そこで、阿部は陳に対して、日本側は女子供が多く、行軍は困難であるから、日本人をこのままここに放置してもらいたいと申し出た。しかし、そんなことを中共側が許すはずがない。

 「戦争の最中でありますから、日本人の方々が想像の出来ない様な危険があります。政府としては、日本の同志達を、此の危険にさらして、放置して置く事は出来ません。」
陳からこう言われた阿部は、「“絶対に連れて行くぞ!” 陳さんの語は柔らかいが、決意の程が窺がわれる」と記しているが、中共側のこの対応の仕方は当然であろう。
それにしても、国民党がやってきたら自分たちを日本へ帰してくれるかもしれないなどと呑気なことを考えてここを動かないと言うのは、まるで世の中を知らない子供がダダを捏ねているように映る。

 避難の準備がすぐにはじまった。日本人は荷物が多いが、それは行軍の妨げになる。そこで、中共側は、政府が全責任をもって後で届けるから、最少の荷物だけもって出発してほしいと言い、残す荷物は梱包して洞窟のようなところに入れられた。個人の持ち物だけではなく、鉱山にある設備はすべてが片づけられた。

 「化学実験室は、天秤も、薬品も、ビーカー、フラスコの硝子器具に至るまでも全部荷造りされて、何処か洞窟の中に運び去られた。図書室の本は1冊も残さず、何処かに消えた。選鉱場のあらゆる機械は、一物ものこさずとりはずされてしまった。据付の基礎ボルトまで抜かれてしまった。鉱石運搬用ベルトは、3尺位にズタズタに切って荷造られた。
 此れ等の器械や薬品などは、旧坑の中に入れてその坑口に発破をかけて、穴を封じて居る。
実に徹底的な退避作業である。退避という一時的なものではない。むしろ破壊に近い。技術的に見て、公司の工場施設は、再び容易に現出し得まいと思われる様な破壊作業である。」(同上書、118〜119頁)

 11月9日、「日本人は全員今夜12時出発」と告げられた。
 「84名の女子供の大部隊が、月夜とは云え、道らしい道もない山路や、石ころ道を行くのである。日本の6里と云えば、女子供の足には、相当の距離である。」

 夕闇せまる雨のなか、目的地の王家村に着いた。


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