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山東半島に渡った満鉄技術者たち 第16回

17 日本への帰国要求

 12月24日、中共側の提示してきた通達を見て、阿部は日本への帰国を決意した。

 「私は、この時始めて辞意を表明した。陳康白博士が私と莱陽でした公約が、去る8月5日玲瓏で無視されて以来、心の底に深く決心して来た事である。
 『関谷は、最近健康を害して居ます。微熱と痔で苦しんで居ます。このままでは、中国の科学技術に寄与しようと云う、当初の理想を実現出来る自信が無くなりました。中国に於いても、内戦が済まなければ、かくの如く、吾々技術者は勤務もなく退避しなければならない状態であります。中国側から見ても、日本人側から見ても、このままぼんやり日を送る事は、無意味な事と思います。いずれ近い将来、機会を得て再び中国に参りますから、この機会に、私を日本に帰していただき度い。御許可をお願いします。』

 関谷が正式に辞意を表明した事は、中国側は勿論、日本人側にも大きなセンセイションをまき起こしてしまった。
日本人側は兼々から、関谷の腰の弱さを歯痒く思い、この日の来るのを期待していただけに、すっかり湧き立ってしまった。一人のこらず各自の理由を附して、正式に辞表を書いて提出した。もう帰国話で、各家とも大にぎやかである。」(『招かれざる国賓』133頁)

 阿部はこのように書いているのであるが、井口は、この帰国要求によって、結果的には彼らの立場はいっそう悪くなったと言う。

 「正月を間近にひかえて、中共側と日本人側とは、漸く激しく対立を始め、遂に、関屋さんが先頭に立って、日本への総引揚げを要求するに至った。
 しかし、この要求は、死活の鍵を握られている我々の立場を、益々不利に追込む結果となって現れた。」(「ダモーイ」第9回)

 1946年12月31日、王家村より移動すべしという指令が来た。厳寒期で内戦は一時休戦となっているので、玲瓏公司は、棲霞県の林家村に実験室を移して、そこに日本人技術者を全部集め、仕事をさせようと計画した。そこに移ったら、給料も支払うというのである。

 年が明けた1947年1月8日、阿部や井口の一行は、王家村から棲霞県林家村までの28キロを、老幼者だけロバに乗せ、あとは全員徒歩で移動した。棲霞県は周囲を山に取り囲まれた天然の要塞になっていて、八路軍の牙城である。

 この村には、玲瓏金鉱で教えていた中国人の学生たちがすでに到着していて、阿部たちを迎えてくれた。
 林家村に行ったら出すといっていた給料も、すぐ出そうにはないので、彼らは陳博士に面会して、2万円を借り、これを皆で分けて当座の急場を凌いだ。

 一向に仕事らしい仕事のない毎日のなかで、唯一彼らの日課となったのは、村はずれを流れる渓流まで水を汲みに行くことであった。冬で氷が張っているため、張り詰めた氷を割って、飲料水を汲み取り、慣れない天秤棒で担いで帰るのである。

 日本人たちの不満は募るばかりで、毎日のように集まっては相談し、「日本へ帰してくれ、もしそれが不可能ならば、元の大連に帰してくれ」という要求を再三提出したが、梨のつぶてで一向に返事がない。

 1月中旬、玲瓏以来一緒に行動を共にしてきた元軍人たち4人に対し、突如玲瓏金鉱に退去せよとの命令が通達されてきた。どうして突然このような命令を出してきたのか、中共側の意図を図りかねたが、話し合って出てきた結論は、中共の幹部たちは、この4人が日本人の総引揚げを煽動していると見て、彼らを玲瓏に移してしまえば、帰国熱は次第に沈静すると考えたにちがいない、ということに落ちついた。

 彼らが玲瓏に去った翌日、阿部、井口、高木、大槻の4人は、陳博士を事務所に訪ねた。彼らは、病気の問題、仕事の問題を話し、「近く内戦でも済めば、改めて中国の科学技術の建設のために馳せ参じますから、今回は一応帰国させていただきたい」と申し入れた。
 これに対して、陳博士は深刻な面持ちで、「生活条件は、必ず皆さんの意に沿うようにしますから、帰国は思いとどまっていただきたい」と語った。(『招かれざる国賓』137〜140頁。「ダモーイ」第12回)

 この日はこれで終ったが、その夜彼らは、現在大連の日本人が引揚げ中であるということを耳にした。玲瓏金鉱の李所長が12月大連に行ってきたとき、大連埠頭に約2万人の日本人が集結していた、というのである。
 何ということであろう。この山東へ渡ってくるに際しては、ソ連占領下で帰国の目処がまったく立たない大連よりも、こちらの方がいろいろ帰国の方便もあるだろうと、誰もが内心思っていた。まったく裏目に出てしまったのである。
 この話を聞いた彼らは、浮き足立ち、いっそう帰国の決意を固めた。「当面は日本直行を主張するが、最悪の場合は大連に戻ろう」と。

 彼らは、翌日また陳博士に面会した。
 「大連では、もう日本人の引揚げが始まっているそうではないですか?」
 陳博士は言った。
 「対アメリカの問題が解決してないから、日本へ向って帰ることは不可能なはずです。」
 阿部がすかさず口を挟む。
 「現在、大連の日本人が引揚げ中であることを、李所長から聞きましたよ。大連から日本に向かって引揚げうるのに、山東から出来ないはずはないでしょう。」
   これに対し、陳博士は下を向いて、もうそれ以上は話さなかった。その翌日、陳博士は何処ともなく消えた。

 1947年1月31日、莱陽行政府の范処長から1通の連絡書が届く。関谷及び井口と面談したいから、両人は2月1日林家村を出発せよ、と。
 「いよいよ我々84名の日本人の去就は、中共大幹部の取上げる問題となって来たのだ。」(「ダモーイ」12回)
 「2月1日、私と井口博士とは林家村を出発した。全日本人は『どうか絶対に、妥協しないで帰って下さい』と泣かん許りにトラックの縁につかまって私たちに頼み、私たちを励ましてくれた。」(『招かれざる国賓』142頁)

 阿部と井口は、先ず玲瓏金鉱に立ち寄り、そこで高経理と合流してから莱陽へ行くことになった。彼らは、玲瓏金鉱へ向う途中のある村に工、宮原、渡辺の3氏が“配属”されて来ているという情報を得ていた。彼らは、昨年(1946年)石黒たちと一緒に玲瓏を出発したが、途中の桃村で降りたという人たちである。
 石黒夫人の著書には、工静男、宮原泰幸、佐竹義継の3人が記されていたが、佐竹だけは別行動になったことは先に触れた。渡辺は、中試において井口が主任を務めた「一般有機化学研究室」に所属していた渡辺勅雄である。

 阿部と井口は、この村に車が一時停車をしたとき、近寄ってきた村童たちに、そっと「日本人がこの村に居るか」と尋ねると、「居る」と答える。「呼んできてくれないか?」――この会話を目撃していた張通訳が、怒気を含んだ声で、子供たちを追っ払ってしまった。車は慌しく玲瓏に向けて出発した。


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