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インタビューリスト


山東半島に渡った満鉄技術者たち 第17回

19 中共側の態度

 1947年2月10日、高経理が日本人すべてを集めて、次のように告げた。

 「日本に帰るか、又は解放地区に留まって中国に協力するか、13日までに公司側に各自の意見を表示して戴き度い。解放地区にとどまる者には、従来の給与の他に、本人並びに家族全部に22斤の米を毎月支給する。米の無い場合は、それに相当するメリケン粉を支給する。」(『招かれざる国賓』157頁)

 高経理の態度は、きわめて高圧的であった。阿部はこれを聞いて、「なんだ、これは昨年莱陽で先方が私に公約したことではないか。今ごろそれを始めようというのか」と不快に思った。しかし、彼はそれには触れず、先日范処長が一度林家村に来て全日本人と膝を交えて話したいと語ったことを取上げ、この問題は范処長が村に来られるまで待ってはどうかと提案した。
 しかし、高経理は、「范処長はそんなことは言わない。とにかく、以上は莱陽政府の伝達事項である。これに対して全日本人が、政府に対して意思表示をすればそれで宜しい」と言った。
 阿部はそこで、張通訳に、「あなたはあの時同席していたのだから、范処長の言葉を記憶していると思うが?」と問うと、張通訳はかすかに震えながら、つぶやくように「范処長はここに来るとは言われなかった」と答えた。

 この日のやりとりは、阿部も井口もほぼ同じような描写をしている。これを受けて、13日までに残留希望を申し出たのは、太田、亥川、西田の3人だけであった。太田は中試の所員ではなく、外部から参加した人のようである。亥川は前出の亥川繁好、西田は中試燃料課に所属していた西田房雄である。彼ら3人を除いては、主だった人々――阿部、井口、緑川、大槻、高木等はみな帰国を決意していた。

 さて、この結果に基づいて、14日夜双方出席で会議がもたれることになった。高経理をはじめ公司側幹部は全員出席したが、日本人側では一人だけ井口の姿が見えなかった。高経理が話し始めたころ、井口が入ってきた。彼はこの日、久しぶりに白酒(焼酎)を手に入れたので、仲間を呼んで一杯やっていたのである。

 高経理の話は次のようなものであった。
 「昨13日までに残留を希望した人は、ごく少数である。非常に遺憾である。本件に関し政府の伝達事項をお伝えする。『日本に帰国する者に対しては、15日以降給与の支払を停止する。16日此処を出発して戴きたい。出発後の車馬賃、食費、宿泊賃及び海港より日本までの船賃等一切は、本人の負担とする。いったん帰国の意志を以って林家村を出発した人が、出発後解放地区に残留を希望しても、もはや政府としては絶対に採用せず。なお、玲瓏金鉱に残してある荷物は、残留希望者に限り、政府の責任において運搬して差し上げる。然し、帰国する者は、自分の責任を以って運搬せられたい。』以上の諸条件に満足して 帰国を希望する方は、本人の自由である。15日夕方までに、各自の意志を表明せられたい。」(同上書、158〜159頁)

 この過酷な条件を突きつけられた日本人たちは、水を打ったように静まり返った。こんな威嚇に屈してはならないと思った井口は、一杯入っている勢いも手伝って、立ち上がって高経理に近づいていき、彼の肩をポンと叩きながら言った。
 「高さん! これが招聘者に対する精一杯の条件かネ。我々はクーニャンじゃないから、威嚇は効かないよ。男同士もっと膝を交えて、問題を研究しようじゃないか・・・」

 井口のこの言動に対し、高経理以下中国側は強硬な態度に出た。
 「彼はサッと身をひるがえして、部屋の外に逃げた。私のホロ酔いのけんまくに怖れを感じたのだろうか。離れた所でふり返りざま、隠し持っていた拳銃を私の方へ向けた。それと同時に、警備兵も一せいに、拳銃の安全弁をカチカチと外しながら、私を包囲した。
 『高君! 拳銃で人間の意志が変えられると思うのかッ‼』
 私が恐れもせず、彼に近づこうとした時、後ろからガップリと羽交い絞めにして、私を引き戻した者があった。
 『危ないッ! 落ちつけッ‼』
 と言いながら、後ろの皆の坐っている座席の中へ、私共々ドウと倒れた。振り返ると、私の危機を救ってくれたのは緑川君であった。
 関屋さんは冷厳な態度で、この場の成り行きを眺めていた。」(「ダモーイ」第15回)

 最後のところについては、阿部の『招かれざる国賓』は少し違った描写をしている。
 「高経理をはじめ、全幹部が、ピストルの安全弁をはずしてしまった。高経理の従卒は、大きなモーゼルの拳銃を抜き身にして室内に入って来た。
 不味いことになったと思ったが、仕様がない。周通訳は、オドオドして、もう通訳の役にはたたない。大した事でもないのだが、言語の不通と云うものは、仕様のないものである。
 私は、高木君と二人で、井口博士をなだめて、椅子につれもどした。井口博士も、日本人的に考えて、大した事でもないので、平気で鼻歌まじりに酔ぱらって居た。」(『招かれざる国賓』159〜160頁)

 しかし、公司側は事態を重大に考え、数名の警備兵が井口を取り囲み、拳銃を突きつけながら、彼を部屋の外に出した。井口によれば、「高木君が周通訳をつかまえて、盛んに取り成しを頼んでいるが、緊迫した様子にすっかり上がってしまった周君は、口もろくにきけない有様であった。私はもう観念のホゾをかため、日本人たちに別れの挨拶をしてから、ユックリ部屋の外に出た。」

20 井口監禁される

 井口は、2キロばかり歩かされ、人里離れた材木小屋のなかに監禁されてしまった。番兵が一人見張っているだけの小屋であるが、すき間から差し込む寒気で眠ることもできない。彼は、学生時代に鎌倉へ坐禅に通ったことを思い出し、板の上に坐禅を組んだ。

 「『鞍上に人なく、鞍下に馬なきとき――これ如何ン!』
 師の坊が耳元でささやいた。私は忽然として、生死を越えた自分を見出すことが出来た。何という、安心感であろうか。私はゴロリと横になって、手枕でグッスリと、天国の夢を見ることが出来た。」

 翌日、夫人から弁当と1冊の古びた本が差し入れされてきた。本は、徳富蘇峰の『思い出の記』であった。井口が監禁を解かれたのは、2月19日とあるので、5日間をこの材木小屋で過ごしたことになるが、彼はその間、蘇峰の『思い出の記』をくり返し読み、日が暮れると坐禅を組んだ。井口は、蘇峰の書が、ドタン場に追い詰められている彼にとって、大きな心の糧になったと書いている。そして、決心した――「命のある限り、帰国の主張は貫徹してやろう」と。

 監禁を解かれた井口は、高経理の家に呼ばれた。「井口先生! 如何ですか? 帰国を断念して、民衆国家建設のため、中共に残って働いてくれますね?」
 高の威圧的態度に、井口は、「残念ながら、私の帰国の意志は少しも変わっておりません」と答えた。
 高は、「あなたは自分の犯した罪を反省しないんですか? あなたはわたしのことを『クーニャン』だと怒鳴って、私のからだを打ちましたネ」と言う。
 井口、「違いますよ、高さん! 我々はクーニャンじゃなくて、男同士なんだから、もっと胸襟を開いて話し合おうではないか――と言ったのです。あんな過酷な条件では帰国は不可能ですからね。肩を叩いたのは、親しみを表す時の日本人の習慣ですヨ。周さんにお聞きになれば、よく解るはずです。」
 周通訳は熱弁をふるって、井口の意志を一生懸命伝えてくれたが、そのお蔭で、高経理の態度もいくぶんか和らいだようであった。
 その後も、高は帰国を断念するよう迫ったが、井口は頑として受けなかった。すると、高経理は意外なことを口にした。
  「『解かりました、井口先生! でも、関屋さんたち帰国論者は、もうこの村を出発してしまいましたよ』
  この一言は、私の胸を刺した。監禁中に、秘かに老百姓を通じて、“私が出所するまで出発を延期するように”と関屋さんに連絡しておいたのに・・・。」(以上「ダモーイ」第16回)

 井口が監禁された後、阿部たちはどうしていたか。『招かれざる国賓』から辿ってみよう。井口監禁の夜、日本人たちは集まって相談した。

 「その夜更けて、大槻、緑川、高木、古賀君等が残留を表明した。政府が提示したこの条件で帰国する事は、常識的に考えてとても実行出来そうもない話である。従って、これ等の人々が『残らざるを得ない』とあきらめた気持は当然である。然し、私は絶対に帰る!
 『帰れるなら、帰って見ろ! この寒空に! 凍死だぞ!』
 莱陽政府のこの肚の内が見えるだけに、私の帰国は決定的だ!」

 こう見てくると、阿部と井口の決意の仕方はなんとよく似ていることか。
 さて、その夜話し合った場で、帰国を表明したのは、家族持ちでは阿部と笠原だけだった。独身者では、軍人上がりの松本、それに鐘ヶ江、藤田、河野等で、家族持ちと合わせて総勢14名であった。


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