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インタビューリスト


山東半島に渡った満鉄技術者たち 第19回

24 最後の脱出計画

 3月15日、阿部たちの一行11名が南花カン村に出発する当日朝のことである。中共政府から南花カン村へ移動するように命令された老川口と笠原が、命令に背いて林家村に残るというので、民兵から暴行を受けた。老川口は銃床で殴られて血を流すが、それでも移動を拒否した。この光景を目の前に見ながら、阿部たちは出発した。

 それから1週間ほどして、林家村に残った井口、笠原、老川口の3人は、一つの声明書を作成した。井口によれば、それは笠原が提案したという。

 「『この際吾々は――関屋先生とは今後一切の関係を断絶する――という声明書を、中共側へ送っといた方が、いいんじゃないですか?』
 この提案には、私も老川口も賛成して、早速この意味の声明書を作成することにした。」(「ダモーイ」第21回)

 ところで、阿部たちが滞在することになった南花カン村は、戦争中、日本軍によって恐ろしく荒らされた村であるという。この村に、阿部の長男・皓夫と中国人の世話係の宮とが準備のため一足先に出発した。
 50歳の宮は17歳の少年に、戦争中の日本軍の残虐ぶりを、道中つぎのように語ったという。

 「『日本鬼子(リーベングイズ)共が、草の先に火をつけて、老百姓(ラオパイシン=庶民)達の家を一軒一軒、焼き廻りおったのだ』
 宮同志は、にくにくしげに、皓夫を見た。
 『南花カン村120軒の中、残ったのは、たった3軒だけだった。日本鬼子の奴めが!』
 宮は、ペッとつばをした。
 『だからお前等鬼子(グイズ)は、家の外に寝てよいのだ。家から焼け出された老百姓(ラオパイシン)の苦労を考えりゃあ、家の中に寝るなんて、贅沢な話さ! 然し、政府は、ちゃんと、お前等に家を世話してやる。有難いと思え。』
 17歳の少年に向って、50の宮は、悲憤慷慨するのであった。
 村に着いた。人相の悪い老百姓が2,3人やって来て、宮に和し『この村には、日本鬼子に貸す家は一軒もない』と、けんもほろろの挨拶である。少年の心は滅入るばかりだった。(『招かれざる国賓』191頁)

 

少し後れて、阿部たちも村に到着した。
 「吾々一行が、小川を渡り村に入った途端に、けたたましい犬の叫びと、男女子供の騒然たる喚声に迎えられた。
 日本鬼子(リーベングイズ)! 日本鬼子(リーベングイズ)!
 未知の人を迎える好奇心のわめきの中に、憎悪に充ちた怒声を聴くと、背中が寒くなるのである。あっちにも、こっちにも、焼け落ちた屋根が見える。屋根の草だけ落ちて、梁木が半焼けにくすぶって居る家もある。日本軍によって、恐ろしく荒らされた村である。日本人に最も強い悪感情を抱いて居るこの南花カン村に吾々を監禁しようとする政府の意図を想うと、私は身震いを禁ずることが出来なかった。」

 彼らは、それでも村長の末弟の家をあてがわれた。この家でも一番困ったのは、やはり便所のないことであったという。

 「私共の家の前の石畳みの庭を横断して、家主の家をつきぬけると、家の外の一隅に、1米位の浅い穴がある。此処が便所である。皆が勝手に用をたすので、時に、文字通り足の踏み場のない事がある。雨でも降ろうものなら将に事である。雨傘を被って、糞の游ぎ廻る池の中をポツポツ島のように頭を出して居る小石伝いに歩いて行って、例の穴とおぼしき所に用をたすのである。一歩踏み外したら大変である。」
 この村には、またサソリが夥しくいた。
 「ある夜、明り窓の下に寝て居る藤田が、飛び上がったような叫びをあげた。何か珍事が起きたらしい。口の重い藤田は、仲々真相を話さない。痛い痛いとうめいて居る。マッチをさがし、落花生油の灯心に燭のついた頃、やっと事件の真相がわかったのである。
 小さなサソリが、藤田の胯間に潜りこみ、彼の一物を、チクリと刺したのである。
 サソリの痛みは、刺された者でなければわからない。私も、後に左の腕を刺され、はねのけた瞬間、右の薬指を噛みつかれた。約6時間全身にひびき渡る激痛は、一寸類のないものである。この痛みを胯間にこらえねばならなかった藤田は、さぞつらかったろうと同情した。」

 この村に来て、呉家村で計画してきた脱出方法を練り直すことになった。当初の計画では、独身者たちが2人2組に分かれて煙台に出ようと計画したが、11名となった今では、同時に4人の若者がいなくなったら、すぐに気付かれてしまうであろうということになった。
 そこで、脱出者を1人だけに絞り、河野がその任に決まった。河野は、旅順工大在学中の学生で、当年22歳である。彼が腰を少し屈めて歩く姿は、中国の老百姓そっくりであるという。彼なら中国人たちの中に置いても、まったく目立たないであろうということになった。
 煙台に出るまで何箇所も検問所があるが、その際必要な通行証の偽造は、松本と阿部の長男・皓夫とが担当した。また、煙台の「聯合国救済総署」にいるという米国人宛英文手紙の起草は、阿部が担当した。

 河野が出発したのは、3月23日のことである。ところが、この日の夕方、宮と笠原が南花カン村にやってきたのである。
 宮はその前に、林家村に立ち寄り、井口、笠原らと会って、「今回政府は君たちをもう一回だけ煙台にやることに決め、私が付いて行ってやることになった。ただし、それは代表者1人だけである。南花カン村の阿部博士らと相談して1人を選べ」と言った。そこで、林家村では、前回も行った笠原が使者としても適当であろうと決め、南花カン村にやってきたのであった。
 阿部はしかし、前回使者として送った笠原は、せっかくの好機をつかみながら、ムザムザそれを逃してしまった、この種の任務を担うにふさわしくない、と見ていた。笠原が使者となることに対して、阿部が強硬に反対したので、なかなか結論がでない。そこで、阿部の息子の皓夫ならば、まだ少年であるから、宮もあまり警戒しないであろうという話になり、結局皓夫を使者に決めた。


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