第19回の後長い間中断し、これまでご覧頂いてきた方々にはまことに申し訳ない次第です。連載を始めてからすでに11ヶ月が経ちましたが、その間次の回とのあいだが空くこともしばしばありましたので、話の筋も忘れられたのではないかと危惧しています。筆者自身の復習も兼ねて、以下に第19回までのあらすじを簡単に整理しておきたいと思います。
山東半島における国民党と共産党の内戦は、1947年夏頃にはますます共産党側に不利な展開となり、日本人技術者たちの大半は中国共産党の指示に従って、逃げ延びるようにしてふたたび大連に帰ってきます。第19回はその目前の時期まで来ており、あと数回の連載で山東を離れることになります。
しかし、それから日本への帰国となると、人それぞれで一波瀾も二波瀾もありました。筆者としては、山東行きに参加した人たちの日本帰国までの足どりを可能な限り追ってみたいと思っていますが、今回の連載は、一先ず大連帰還をもって区切りとさせていただきます。
山東省に科学研究機関を創設するので協力してほしいという中国共産党(以下、中共)の内密の要請を受けて、満鉄中央試験所(以下、中試)の研究者とその家族が大連から山東半島に渡ったのは、終戦から一年近くも経った1946年の暑い夏の季節であった。
大連における中共の出先機関である太華公司の呉宗信から、45年12月中旬この要請を受けたのは、中試の次長兼燃料課課長であった阿部良之助である。要請は阿部個人に対するもので、中試の所長や他の次長の与り知らぬことであった。阿部は燃料課の5人の幹部とのみ相談し、条件次第では要請を受け入れようと決めた。
46年4月18日、阿部は誰に告げることもなく大連から姿を消した。彼は自分の家族だけ連れて大連港を出航し煙台へ渡ったのであった。そして、延安の中共中央から派遣されて来ていたこのプロジェクトの責任者陳康白博士と共に、煙台における研究所建設予定地を見て回ったうえ、莱陽の中共政府を訪ね、受入の条件等について相談した。6月、阿部は中試の後輩や部下たちに山東へ来るよう促す手紙を発した。
ソ連軍政下にある大連を、日本人が無断で脱出することは命がけのことである。技術者32名、家族を含めると128名が、井口俊夫を団長とし、みな中国人になりすまして大連港を出港したのは、7月27日のことである。
ところが、阿部から連絡を得て、32名の技術者とその家族が大連を出発したときには、山東半島では国民党と共産党の内戦がすでに火を吹きはじめていた。彼らは、予定していた煙台には上陸できず、龍口に上陸。招遠から程遠くない戦前日本の三菱鉱業が経営していた玲瓏金鉱に連れて行かれた。
内戦は日を追って激しくなり、彼らが到着したときには科学研究機関建設の計画は無期延期となっていた。到着するなりこの決定を告げられ、彼らは途方にくれる。一方、中共としても、これだけの人材を呼び寄せた以上、何かふさわしい仕事をしてもらわなければならない。
そこで、各自の専門や適性に応じて、教育を担当する者、農薬作りの指導に当たる者、火薬の分析指導に当たる者、八路軍で生薬製造に当たる者等に割り振られた。
なお、この鉱山には彼らに先立って八路軍の捕虜になった元軍人等4名の日本人が留用されて来ていた。この4名も彼らと一緒に行動することになる。
32名のうち、大学を出たばかりの若い技術者など8名とその家族はこの段階で大連に帰されてしまった。中試から参加したメンバーは阿部良之助を含めて21名であったが、彼らは全員山東に残ることになった。誰がどのようなグループに入れられて行動することになったのか、簡単に整理しておこう。
阿部をはじめ半数あまりは玲瓏金鉱に留まって、金鉱の再建に協力する一方、中国人学生に化学や物理の講義をした。それらの人々は、以下の通りである。
阿部良之助、井口俊夫、緑川林造、高木智雄、岡田寛二、亥川繁好、大槻茂寿、笠原義雄、西田房雄、藤田英夫、鐘ヶ江重夫。
(なお、このグループでは、阿部良之助の著書『招かれざる国賓』、井口俊夫の太陽油脂株式会社社内報『太陽』に長期連載した「ダモーイ」が特に詳しい記録を残しているので、一行の足跡については主にそれらに拠った。)
それ以外の人々は、8月末には山東の農村に散って行った。
石黒正知、石黒正、橋本国重、横山修三、古賀政治、小森正三らが1グループをなして、農村へ赴任することになったが、このグループは一箇所に留まることができず、村々を転々とすることになる。(石黒恵智(石黒正夫人)が後年出版した『北斗星下の流浪』は大連出発以来の体験を詳しく記しており、その長男正範氏が筆者に語ってくれた談話と併せて、このグループが山東省の農村でどのような生活体験をしたのか、かなり具体的にフォローすることができた。)
工静男、宮原泰幸、渡辺勅雄の3名は、中共の指示で赴いた農村で、農薬の製造と指導に従事した。
佐竹義継は単独で八路軍の後勤部にやられ、生薬の指導に当たった。
(なお、21名のうち現存者は鐘ヶ江重夫氏一人であるが、残念ながらあまり多くのことを聞き出すことができなかった。ただ、中試の所員であった人たちが帰国後『中試会々報』を発行し、それが30号まで刊行されている。そのなかには、この山東行きに加わった人たちが当時のことを回想している文章も相当数あり、それらは随処に利用させていただいた。)