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山東半島に渡った満鉄技術者たち 第22回

27	建設大学からの招聘
 大連に帰すと言われながら、2月近くも待ち続けていた阿部、井口それぞれのところへ、7月23日1通の手紙が届く。建設大学・李亜農校長からの招聘の手紙であった。生活に困られているそうですが、建設大学へいらっしゃいませんかという趣旨の勧誘を、非常に鄭重な日本語で綴った書信であった。井口はその手紙を下記のような形で紹介しているが、もちろん彼の記憶から再現したものであろう。

 「突然の手紙お許し下さい。私は嘗て貴国に留学し、三高を経て京都大学を卒業した者であります。尊台が大変困っておられるという話を、ある日本人から伺いました。ついては、如何でしょう、私の学校の方へお越しになって、教授としてご協力願えませんでしょうか? 私も何かと尊台のお役に立ち得るものと信じます。
華中建設大学学長   李亜農」

 李亜農という人については、阿部・井口が李氏当人と対面したおりに、経歴を含めてその人物の紹介をしたいと思う。
 ともあれ、物質面でも精神面でもどん底状態にあった2人にとっては、この手紙はまさに思いもかけず天から降ってきたような助け舟であった。阿部と井口が一も二もなく招聘に応じる返事をしたのは言うまでもない。

 しかし、李亜農からは、すぐには連絡がなく8月に入ってしまった。8月初旬、煙台出張中の佐竹義継から阿部宛に手紙が届く。その手紙によって、この建設大学からの招聘話は、佐竹が阿部たちの窮状を伝え聞いて、建設大学の沙教授に救済を依頼したものであることが判明した。上に引いた手紙の「ある日本人」とは佐竹義継であった。


 佐竹義継は第13回の「12 流浪のはじまり」のところで少し紹介したが、薬学のエキスパートであった佐竹は、中試の他のメンバーから切り離され単独で八路軍の後勤部に赴任させられた。彼は軍の配下にある新華製薬廠の一等研究指導員という高い地位を与えられ、薬品製造の指導に当たり、長く山東に留まった。佐竹一家が日本に帰国できたのは、人民共和国が成立して4年後の1953年である。
 「カラザール」(黒熱病)と呼ばれていた山東の風土病に対する治療薬を開発したり、ブドウ糖代用品の転化糖の研究に尽した佐竹の功績は、中国で高く評価されており、日中国交が回復すると、彼は1980年、中国政府の招きで山東省を訪れ、講演を行っている。
 新華製薬廠はこんにち山東新華製薬企業集団として発展し、鎮痛解熱剤では中国でトップ企業にランクされているという。その記念館には上のような佐竹義継の写真が展示され、その功績が顕彰されている。

 ところで、佐竹が阿部たちの窮状を伝えたという建設大学の沙教授は、日本に留学し、一高から東大へと進んだ人である。そして、その建設大学の校長は、やはり日本に留学し、三高から京都大学へ進んだ李亜農であった。このかつて日本に留学した経験を持つ二人のあいだで一挙に話が進展し、招聘が決まったであろうことは容易に想像がつく。

 8月22日には、李亜農校長から阿部・井口それぞれのところへ支度金として1万円が届けられた。二人の家族が出発できたのは、それから3日後の8月25日である。
 この日、南花カン村を出発した阿部の家族が、井口一家のいる呉家村に到着した。中共側が設定して、この2家族は揃って建設大学へ行くことになったのである。
 阿部と井口は5ヶ月振りの対面である。最後に2人が会ったとき、井口は阿部に向って、「今後私並びに私の家族は関屋(阿部)さんご一家と一切の関係を断絶しますからご承知下さい」と啖呵を切った。
 しかし、この日やって来た阿部を見て、井口はその変りように驚いた。「五ヶ月振りに相見える関屋さんは、全く憔悴し切っていた。昔の面影を偲ぶよしもない。そのヒゲだらけの顔を見たとき、私は過去の一切を水に流そうと思った。」


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