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インタビューリスト

山東半島に渡った満鉄技術者たち 第23回

28	建設大学と李亜農校長
 磐石店から建設大学のある鶴村までは、約16キロの道のりである。鶴村に移動する当日、李亜農校長が派遣した林青年が迎えにやってきた。台湾生まれの林君は東京の成城高校の卒業だそうで、日本人かと思われるほど全くなまりの無い日本語を話す。阿部も井口もこの気持のいいさっぱりした林青年にたいへん好感をもった。

 彼らが案内された住宅は、鶴村第一の大地主が住んでいたという豪壮なる大邸宅であった。村が共産軍によって「解放」される前に、この大地主はどこかへ逃走したのであろうか。それとも処刑されたのであろうか。
 この邸宅は、これまでのような草と土と石で作られた貧しい農家の家と違って、鉄筋コンクリートで半ば洋風に建てられた広大な平屋である。その奥の半分に阿部一家が住み、他の半分に井口一家が住むことになった。ヨーロッパの生活を体験したことのある井口にとっては、コンクリートの床を踏みしめる触感はなつかしいものがあり、洋風の窓を開閉するたびに、何ともいえない快さを感じた。
 ただ、このようなハイカラな住宅でありながら、便所だけはこれまで見たこともない一風変わった不思議な造りであった。戸外にあって、コンクリートの塀に囲まれており、その中には大きなコンクリートのプールがあって、水を満々と湛えている。用を足すにはそのへりにしゃがんでお尻を突き出すという寸法である。野天を仰ぎながら用を足すのは爽快でもあるが、入口に扉も何もないので、誰かが入ってきはせぬかと気になるのである。まあしかし、豚にお尻を舐められそうになりながら用を足してきたあの農村での生活と比較すると、ここでの生活は天国のような快適さであった。

 鶴村にある建設大学は移動大学である。華中から2千名の学生を引き連れて、内戦を戦う新四軍と共にはるばるこの山東半島の先近くまでやって来たという。定まった校舎があるわけではなく、長さ24キロ、幅8キロの面積のなかに、学生の各グループが散在している。教授たちは、そのグループのあいだを巡回しながら指導しているのである。教授陣は文科系、理科系合わせて百人ちかくいるそうである。

 ここに着いて2日目、林君が李亜農校長、沙教授を案内してやってきた。背広姿の李校長は、「私が李です。みなさん、遠路はるばるたいへんご苦労さまでした。お疲れでしょう?」と流暢な日本語で挨拶した。
 やがて、李校長の指示で、この豪邸の1室で晩餐の準備がはじめられた。かつて日本に留学した李校長と沙教授から、流暢な日本語でねぎらわれ、見事な晩餐で歓迎された彼らは、まるで日本に帰ったような気持になった。ここが中共の解放区であり、話している相手が中共の幹部であることを忘れ、八路軍の悪口がつい口を衝いて出てハッとするようなこともあった。

 ここで李亜農校長の経歴について述べておきたい。前に触れたように、彼は日本に留学した人であるが、その来日の年齢はたいへん若かった。1906年四川省江津県の豪農の家に生まれた彼は、1916年、10歳になったばかりときに、兄の初梨といっしょに日本にやって来た。初梨は1900年の生まれで、この年16歳である。
 最初の地東京で、弟の亜農は小学校へ入り、その後第一高等学校の特設予科に進んだ。実藤恵秀著『中国人日本留学史稿』(昭和14年刊)によれば、中国人の留学生がピークを迎えた明治40年前後のころ、中国で普通教育を受けることが困難な地域では、幼い年齢で日本に来て日本で小学教育を受けるケースがかなりあったという。――そうしてみれば、李亜農が10歳でやって来たのも、特に珍しいケースではなかったのかもしれない。
 兄初梨のほうは理工系を志し、東京高等工業学校(東京工業大学の前身)の電気科に入学した。しかし、1919年中国で五・四運動が起ると、19歳という多感な年頃であった初梨はその影響をまともに受けた。日本の「対華二十一ヵ条要求」以来、留学生たちの多くが祖国の運命に心を寄せ、日本への抗議をこめて帰国する者が相次いでいたのである。彼は帰国するまでには至らなかったが、理工系を棄てて文科系に変更し、熊本の第五高等学校を受験して、その文科乙類(ドイツ語専攻)に移った。
 昭和15年(1940)、興亜院で発行した『日本留学中華民国人名調』によれば、大正13年(1924)の五高卒業生のなかに李初梨の名が見える。それから逆算すると、彼が東京を離れて熊本に行ったのは1921年であろう。五高を卒業した初梨は、その年(1924年)の春京都帝国大学文学部に入学している。

 同上の『日本留学中華民国人名調』によれば、昭和2年(1927)の第三高等学校の卒業生のなかに李亜農の名が見えるが、これも同様に逆算すると、彼が三高に入学したのは1924年となろう。
 つまり、1924年春、兄は熊本から京都に移り、弟は東京から京都に移って、同じ京都の地で兄は京大に弟は三高に通うことになったのである。
 京大に入学した初梨は、当時有名なマルクス主義経済学者・河上肇の講義を聴講し、彼自身もマルクス主義文芸理論の研究に着手した。亜農は三高では文科丙類(フランス語専攻)に入り、フランス語の修得に努める一方、哲学・文芸書を読み漁った。また、河上肇の著作を愛読し、兄同様マルクス主義に共鳴して、次第に革命運動を進めているグループに接近して行った。
 兄弟二人して左翼運動に傾倒していることが四川省の実家に伝わると、親たちの落胆と怒りは大きかったのであろう、家からの送金はストップしてしまった。完全に干上がってしまった二人は、食事を作る金にも事欠き、空腹を抱えたままベッドに横たわっているしか外に過ごしようがない時もあった。

 1927年、亜農は三高を卒業し、京都帝国大学文学部に入学している。兄の初梨は、仕送りが杜絶したことが関係していたのか、卒業を果さずして、この年10月、4年生の途中で帰国している。帰国すると、すぐに上海で左翼作家たちの文学サークル・創造社の活動に参加し、翌年には論文「革命文学をどのように建設するか」を発表して、一躍その名を広く知られることになった。


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