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インタビューリスト

 一行の人数が多すぎると、中共側は判断したようで、全体を2組に分けて大連を目指すことになった。一つのグループは、再び威海衛に出て、そこから大連に向った。石黒たちのグループは、石島という威海衛よりずっと南の小さな港から出発した。どういうメンバーが一緒になったのか記されていないが、石黒家族はそれまでずっと一緒であった橋本夫妻とは、ここで別々になったようだ。
 橋本たちのグループは、威海衛から出航したが、大連にたどり着くまで、大変な難儀をした。国府軍の軍艦を避けるため、船は先ず朝鮮方面に直進したらしい。そして、朝鮮の西海岸に沿って遼東半島に向かおうとした。そのため、4日目もまだ西朝鮮湾を進んでいるような有様であった。本来大連までは1日の行程なので、船には1日分の水と食糧しか積んでいない。乗っていた人たちは飢えと渇きでフラフラになったうえ、11月に入っていたので、雪も降りはじめた。
 船は遼東半島の大孤山を目指したが、吹雪のために、小鹿島のあたりで座礁してしまった。やむなく、近くの島、大鹿島に上陸することになった。小鹿島と大鹿島の間は、引き潮のときは島続きだが、潮が満ちてくると背が届かない。すでに潮が満ちはじめている浅瀬を素足でじゃぶじゃぶ歩いて上陸した。岩に付いたカキの殻で足はズタズタに切れた。それでも、間一髪でなんとか上陸できた。持ちきれなくて船に残してきた荷物があったが、すでに潮が満ちてどうすることもできなかったという。


 石黒たちが出発した石島は、威海衛から山東半島の東の突端をぐるっと半周した南側に位置し、大連へはそれだけ遠くなる。航路地図で見ると、大連―威海衛間は172キロであるが、大連―石島間は278キロあり、およそ100キロ余り遠くなるのである。しかし、結果的には、橋本たちの船のように数日間も黄海上をさ迷うようなこともなく、順調に大連に到着した。

 石黒たちのグループは数家族であったようで、小さなジャンク1艘で事足りた。船は国府軍側に見つからないように、慎重にコースを選びながら、岸に沿って進んだ。いよいよ黄海沖に出ると、荒波でジャンクは揺れに揺れたが、無事大連の甘井子に上陸することができた。甘井子は大連港の対岸に位置し、戦前は満洲化学、満洲曹達、満洲石油等々の化学工場が集まっている臨海工業地帯であった。
 彼らが案内されたところは、元満州化学の社宅で、今はそこが招待所になっていた。そこで久々に味わった米の味はまた格別であった。
 1年4ヶ月ぶりに大連に帰ってきたのであったが、大連市街への外出は許されず、石黒たちは数日後には安東に向けて出発すると告げられた。

結びに代えて
 山東に渡った中試所員のなかで、3人の技術者及びその家族が山東に残留したが、その他の人たちは、内戦の激化により、1947年5月頃からそれぞれ数人ずつのグループで大連に引き返して行き、11月に石黒、橋本のグループがそれぞれ引き返して、最後の大連帰還なった。

 この間大連では、1946年12月から日本への引揚げがはじまり、翌年3月まで続いた(第一次遣送)。『満蒙終戦史』によれば、4ヶ月に及んだ遣送で、68隻の船が用いられ、総計21万8179名の日本人が引揚げた。この中には陸軍・海軍の軍人1万917名が含まれていた。あとに残った日本人の数は8千名足らずであったという。
 東北の他の地区と違って、なおもソ連軍政下にあった大連では、ソ連軍の意向と市政府を実質運営している中共の意向とが交錯した。いったん日本人を帰国させる方針を打ち出したソ連軍側は、帰国を希望する日本人は全て帰す方針であった。それに対して、中共側は、東北の各種工業が軌道に乗るまでは、日本人技術者をできるだけ多く留用しようとした。したがって、あとに残った8千人足らずの人たちは、大半が技術者とその家族であった。

 翌1948年7月に第二次遣送があり、『満蒙終戦史』によれば、4933名が帰還した。そのあと、大連には約3000名の日本人が残ったが、そのほとんどは中共政府よって半強制的に留用された人たちであった。

 1949年9月に第三次遣送があり、2861名が帰還した。大連には、なお1200名の日本人が残った。両者を合計した人数は、上の3000名を1000名余り越えるが、これは中共が大連在住の技術者をなんとしても残留させようとして乗船名簿に入れず、代わりに奥地から病弱者や婦女子を送り出して乗船させたためであると『満蒙終戦史』は記している。

 山東から大連に帰ってきた人たちで最も早かったのは1947年5月下旬であったから、すでに第一次遣送が終った後で、大連の街に日本人の姿はほとんど見られなくなっていた。次の遣送がいつ行われるのか分からないので、彼らは、先ず食べていく算段をしなければならなかった。1年後の1948年7月、第二次遣送があり、山東から帰ってきた人たちの何人かはこのとき日本へ引揚げたが、中共側の強い要請で帰国できず、1949年の第三次遣送で帰国した人たちも半分近くいた。
 大連帰還から日本帰国までの間の生活について、数人の人が『中試会々報』に随想を書いているので、次の機会に紹介したいと思う。

 ところで、前述したごとく、石黒正一家、兄の石黒正知一家は、大連到着数日後には安東へ旅立ち、その後各地を転々として、1953年まで残留した。ほかに同様のケースとして、橋本国重、高木智雄の一家がある。このうち、夫人が記録を残している石黒正一家のことについては、いずれ帰国までの足跡を紹介したいと考えている。
 山東に残留した3人、佐竹義継、緑川林造、宮原泰幸はそれぞれが別の処へ留用されたが、すでに紹介したように、佐竹が当時のことを回想している文章を残しているものの、他の2人について詳しいことは目下のところ分からない。

 また、結末まで紹介できず気になっているのは、李亜農によって建設大学に招聘され、厚遇を受けながら大連まで避難・帰還した阿部良之助、井口俊夫両氏のその後のことである。ここで最終局面だけ述べておくと、両氏とも1948年に帰国している。井口は、第二次遣送の際、運搬係に扮して荷物を船に運び、引き返さないでそのまま出航まで倉庫の荷物の間に隠れていた。かくして、中共側の眼を逃れて乗船を果たし、帰国した。阿部の場合は、家族を第二次遣送で先に帰したのち、単身残留を決めたように装いながら、まるでアクション小説紛いの脱走を自ら企て、朝鮮半島経由で日本への帰還を果している。
 二つともそれはそれでドラマチックな話ではあるが、両氏とも李亜農との約束を反故にし、強引に帰国をしたことは間違いない。大連帰還後の李亜農との関係も含めて、その間の経緯を次回たどってみたい。

 以上の課題を残したままで、本連載を終了するのはまことに心残りですが、遠からず何らかの形で責めを果したいと思っています。(了)

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