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――入隊されたのは何年ですか。 43年12月に徴兵検査、翌44年1月に召集を受けて駿河銀行を退職しました。銀行のほうでは休職ということにして軍隊へ行ってはどうかと言ってくれたのですが、私は断りました。休職にすれば、留守家族に給料の半分が支給されるのです。 しかし、私は生きて帰って来るなんてことを考えること自体が女々しいことだと思っていました。当時軍隊へ行くのに、「征ってきます」という言葉はありませんでした。「征きます」しかなかったのです。ですから、私は入隊するときも遺書代わりの歌を残しました。 辞世二首 すめろぎの 命かしこみ 梓弓 行きたふ道を 行ききわめてよ かえりみは せじと言だて 梓弓 なき数に入る われぞ嬉しき こうして出征して行ったのは、44年1月15日のことです。私たち熱海小学校の同窓生11名は現役兵として三重県の久居にあった歩兵第153連隊に入隊しました。静岡県庁の国民健康保険課には私たち一人一人の軍歴が書かれた「陸軍戦時名簿」があります。これにはかなり細かい日付まで入っています。 私たちは、河北省の石家荘から石太線で山西省に入り、楡次(ゆじ)に来て、そこから東潞線(とうろせん)でずっと南下して師団司令部のある潞安(ろあん)に到着しました。壷関はそこから更に南に入ったところにあります。 ここで北支那派遣軍第1軍第62師団(石部隊)独立歩兵第22大隊第2中隊に編入され、初年兵教育を受けることになりました。 壷関は山々のふところ深くにある廃墟のような炭鉱町でした。日本軍の進入で、多くの住民は逃げ出してしまっていて、空き家が目立ちました。 私は配属が決まったその日から、北門の警備に立たされました。深い谷を隔てた前方は見渡す限り山また山で、正面遠くには雪をいただいた太行山脈が連なっていました。古参兵から、あの山の中に八路軍の根拠地があるのだと教えられました。 警備に着いた日の夜、壷関は早速敵襲を受けました。襲撃されたのは南門でしたから、私たちの北門警備隊は戦闘には直接加わりませんでした。 しかし、機関銃の連射音が聞こえ、非常呼集があり、慌しく戦闘配備につかされましたから、第一夜に受けた洗礼としては充分過ぎるものでした。「これは第一線に来たな」と身が引き締まるのを覚えました。 初年兵教育が終わって、私は甲種幹部候補生として教育を受けるために中国に残りましたが、一緒に入隊した熱海小学校同窓生10名は原隊(第62師団・石部隊)とともに沖縄へ転進して行きました。 石部隊は輸送船3隻で運ばれ、1944年6月20日、那覇港に上陸します。3隻の輸送船は疎開学童と住民を乗せてその足で鹿児島へ向いましたが、その中の1隻対馬丸は悪石島沖で米潜水艦の雷撃を受け轟沈してしまいました。学童700余名と一般疎開民約1000名は哀れ闇の波間に消え、生存者はわずか学童59名、一般民168名でした。痛恨の極みです。この「対馬丸事件」も、ずっと後に知ったことです。 当時は、ピリピリと張り詰めた最前線に私だけがとり残されて、友だちが皆本土に近い沖縄へ向うのを羨ましく思いました。 1945年1月、私は河北省石門(石家荘)にあった陸軍予備士官学校に入学しました。 45年3月から、沖縄ではアメリカ軍の空襲と艦砲射撃が激しくなり、4月1日、アメリカ軍が上陸します。島内各地で激戦が続き、石部隊の戦力は半減。6月17日、軍司令部の命令で摩文仁へ転進しますが、ここでの苛烈な戦闘で石部隊は全滅状態になります。同窓生10名中9名が命を絶たれました。 6月23日には軍司令官牛島満が自決。沖縄戦は事実上終結しました。8月15日まであと53日でした。「本土決戦」の時間稼ぎのために、政府と軍部の無謀な「沖縄持久作戦」の犠牲になったのでした。実に哀れでなりません。 帰国後、生き残った1人に、最後の様子を聞こうとしましたが、「みんなやられちゃったよ」と言うだけで、多くを語りません。いや、あまりに悲惨すぎて、語れないのでしょう。 45年7月に教育を終了した私は、兵科見習士官として、再び山西省の第1軍独立歩兵第14旅団(司令部・潞安)に配属されました。終戦の1月前のことです。 |
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