logo

オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料

インタビューリスト

山東半島に渡った満鉄技術者たち 第25回

30	内戦の渦中を彷徨する最後の一団
 本連載の第1回で、私は石黒恵智著『北斗星下の流浪』を中心にすえて、中試の人たちの山東行きの足跡を辿ろうと思う、と書いた。ところが、連載をはじめると、この山東行きを計画した阿部良之助と井口俊夫を中心とするグループのことに、多くのスペースと時間を割いてしまった。当初は参加者全員が日本へ帰国するまでを視野に入れていたが、連載期間が余りにも長期になってしまったため、一先ずは参加者のほとんどが大連に引き返したところで、この連載を打ち切りたいと思っている次第である。その続きはまた別の形で考えたい。


 『北斗星下の流浪』では、大連帰還までの物語は実は全体の半ばにも達せず、それから更に長白山を越えて大栗子へ、さらに輯安、安東、瀋陽、ハルピン、瀋陽と石黒一家の流浪は続くのである。一家が帰国できたのは昭和28年(1953)であった。山東に渡った中試所員の人たちのなかでも、石黒一家はもっとも多くの地を渡り歩いた、――正確に言えば、歩かされた、と思う。本書を中心にしてこの物語を描きたいと思った理由の一つはその点にあった。

 もう一つ、私が『北斗星下の流浪』を選んだ理由がある。満洲で敗戦を迎えたすべての日本人には、大きな苦難が振りかかってきた。本書は、著者がそうした苦難と向き合い、懸命に生きた記録であるが、そこには自分および家族が遭遇したさまざまな困難に対して、悲嘆とか憤懣の情がほとんど感じられないのである。まるで、それらの苦難を自らに課せられた運命として、素直に受け入れているかのようである。彼女の持って生まれた人柄によるのであろうが、たいへん明朗・闊達な筆致で、多くの接した人たちを善意をもって生き生きと描いている。
 これまで見てきたとおり、内戦下の山東の農村では、それまでの人生で体験したことがないほどの不自由な生活を強いられながらも、著者は招いた側の中共に対して恨みがましいことを言うわけではない。むしろ、内戦による極端な物資不足と不自由さのなかにあって、中共が自分たち日本人に対してはいつも精一杯尽くしてくれていると感じて、感謝をすらしているのである。この点は、他の人たちの著作と異なるところである。

 『北斗星下の流浪』に序文を寄せた佐藤正典・元中試所長が、次のように書いているのが本書の特色を一番よく言い表しているといってよかろう。

 「今まで多くの人たちの引揚記録を読んだが、それらのすべてに共通するじめじめとした悲壮感や哀愁は、この本にはみあたらない。
 満洲の曠野にすさぶ朔風の中に、カールブッセの詩や、藤村の「椰子の実」を歌い、詩情豊かに淡々と、苦しみに堪え、強く明るく天命に処していく、慎ましくもまた勇敢な日本女性の典型をここにみる。読む者に大きなはげみと勇気をあたえる本といっていい。私はこの本をくり返して読んだ。この感動をぜひ多くの人にわかちたい、その願いをこめて、この一文を草した。」

 まことに、佐藤の言うとおり、本書からは「じめじめとした悲壮感や哀愁」は全く感じられない。ルサンチマンが全然ないのである。
 ただ一つだけ、この本のために惜しまれると思うのは、恵智女史が大連以来ずっと付けてきた日記帳を、内戦下の逃避行のなかで荷物を減らす必要に迫られ、大連帰還の直前、自らの手ですべて焼いてしまったことである。これは誰よりも本人にとって辛いことであったと思われる。もし、それらの日記帳が残されていたならば、本書は、月日の正確な記載をふくめて、いっそう生彩に富んだ作品になったであろう。

 さて、話を本連載第14回の石黒たち一行のことに戻そう。彼らは西労口村で年を越し、1947年の正月を迎えた。ここで一緒であった人たちは、中試の元所員では、石黒正の兄の石黒正知、小森正三、横山修三、橋本国重、である。中試以外の人たちとして、吉野、佐藤、安孫子、森田、五十嵐といった人たちの名がでてくる。山東半島には、中試以外にも満洲の大企業で働いていた日本人技術者たちが、やはり中共の勧誘によりやって来ていた。おそらくこの西労口村で合流したのであろう。

 1947年春頃から、内戦は激しさをまし、石黒たちの一行もついに西労口にいられなくなった。国府軍が近くに迫ってきており、逃避行も身の危険を伴うものになってきた。日本人は、大連を離れるとき全財産を持ってきたため、荷物が多すぎるのが、この逃避行の妨げになっていた。そこで中共の部隊は、それらの荷物を預って安全な所に隠してくれた。
 ≪私たち一行は、中共の兵士たちに守られながら、移動を始めた。身軽に動けるように、最少限の物だけを手にして、不急のものは全部中共側に預けた。中共側からは、"国情が落ちついたら、かならず荷物を送り届けるから、心配しなくてよろしい"と、確信ある口ぶりで皆に伝達された。衣類などは、虫がつかないようにこまかい配慮がされて、どこか壕のような所へ隠して入れられるらしかった。≫(同上書、100頁)


文字サイズ
文字サイズはこちらでも変えられます


お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ



Copyright (C) 2007-2009 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.