logo

オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料

インタビューリスト


橋村武司氏 第1回 1.対馬から満州へ〜2.ハルピンでの生活

 橋村武司さんは1932年(昭和7)の生まれ。8歳で父を亡くし、戦火のさなか1943年(昭和18)、母と妹と3人で満鉄勤務の伯父を頼ってハルピンに渡る。中学1年で終戦を迎えたが、混乱の続く満州で各地を転々としながら自活して生き抜く。1950年、中国に留用された元満鉄社員の義父の家族とともに西方の天水に鉄道新設(天蘭線)のために移住。このとき約300名の元満鉄の技術者、その家族を含めると800名の日本人が天水に移住した。 橋村さんはここで中国人の通う中学・高校で学ぶ。1953年、天蘭線は開通し、日本人は全員帰国した。
 橋村さんには、中国に渡った1943年から帰国する53年までの10年間の体験を中心に語っていただいた。

1 対馬から満洲へ

  「私は長崎県対馬の厳原(いずはら)で、1932(昭和7)年5月22日、父・寿太郎、母・アキの長男として生れました。妹が二人いまして、現在上の妹・美幸が佐世保に、下の妹・弘子が長崎にいます。
 父は男ばかり7人兄弟の次男坊でした。厳原ではクリーニング店を経営していましたが、若い時期東京に出て白洋舎に勤め、職を身につけたと聞いています。
 祖父・橋村卯作は佐賀県鹿島の近くの小さな村の出身ですが、そこは集落全体がすべて「橋村」姓というところでした。祖父も私たちの家族と一緒に住んでいましたが、「葉隠れ武士」の精神を継承したような人で、孫の私たちから見ると厳格そのものでした。そして、そうした性格は父も受け継いでいました。
 ところで、父の兄弟は7人のうち、一番上と一番下とだけになってしまい、間の5人はすべて20台、30台という若さで世を去りました。みな結核や肋膜の病気で亡くなったようです。私の父は明治40年の生まれですが、1940(昭和15)年、33歳で大腸癌のため亡くなりました。私は8歳でしたが、このときは妹と押入れの中で泣いたことを覚えています。
 父の兄弟で子供ができたのは、私のところの3人しかいませんでした。祖父は男の初孫であった私をたいへん可愛がってくれましたが、一方で厳格に育てようとしました。
 父の兄、すなわち長男の橋村高保は満鉄に勤めハルピンに行っていました。この伯父のところにも子供がいませんでしたので、私の妹の弘子がそこの養女になってハルピンに貰われて行きました。
 父の死後、母は職人を雇ってクリーニング店を続けていましたが、やはり経営が難しくなっていったようです。この頃、戦局もだんだん厳しくなってきていましたから、対馬にいても物は入ってこないし、食べる物もなかなか入手できなくなっていました。お菓子は配給になっていましたし、甘いものはもう食べられなくなっていました。祖父も非常に心配しまして、結局私たちの家族――母と私と妹の3人は伯父を頼ってハルビンへ行くことになりました。これが、1943年3月のことです。
 日本海もこのころすでに厳戒態勢に入っていましたから、釜山まで航行するのに、窓は黒い布で塞がれ外が見られないようになっていました。船には満蒙開拓団のお嫁さんとして渡る人たちが何人かいたのが、子供心にも印象に残っています。
 釜山からは鉄道を使ってハルピンまで行きましたが、途中のことはあまり記憶にありません。」


文字サイズ
文字サイズはこちらでも変えられます


お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ



Copyright (C) 2007-2009 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.