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橋村武司氏 第4回 5.林口から牡丹江へ

5 林口から牡丹江へ

 林口で一応落ちつきはしましたね。終戦直後の混乱からは抜け出したという感じがしました。私にとっては、やっと勉強できるような環境にもなりましたし。
 
母・アキさん
林口に半年ばかりいて、47年の春牡丹江へ移りました。ここでは2階建ての元看護婦寮に入りました。我々一家6人に与えられたのは、約10畳ばかりの広さの部屋でした。寒いところですから、ペチカ――床ではなく壁式のオンドル――で暖をとっていました。
 ここでは、鉄道職員の有志の人たちが夜学を開いてくれました。小学校はちゃんとあって、専任の先生がいましたが、中学以上はなかったです。有志の先生たちは、昼間は勤めをもっていますから、仕事が終って夜僕らのために講義をしてくれました。生徒は10名ぐらいいました。
 技術者である先生たちは、自分の専門のことを教えてくれました。機関車関係のことをやっている人は機関車の仕組みを、電気関係の人は電気のことを、というふうに自分の職に応じて講義をしてくれましたが、これは面白かったですね。普通の学校の講義とちがって、実際に仕事でやっていることを話してくれるのですから。機関車など一番面白かったです。実際に試乗させてもらえましたので感動しながら保全を行いました。
 夜は、こうして夜学があったのですが、昼間はなにもすることがないのです。ペチカで燃すための薪を割ったり、友達と床下に隠れてマホルカ(煙草)を吸ったりしていましたが、そんなことしかすることがないのですね。それで私は、これからはもう自分で勉強しようと決心しました。
 幸い、数学、物理、化学など理工系の本が多少ありましたので、それらを読んで独学を始めました。これはかなり長く続きましたが、数学などこの独学によってすべてマスターできたものと思っていました。数学は代数、三角(サイン、コサイン)と幾何だけだと思っていたのですね。数学に微分や積分があるということを知ってショックを受けたのは、天水の高校に行ってからでした。
 物理は公式を丸暗記しました。一番困ったのは化学でした。あれは実験の学問ですから。それでもアルコールランプからはじまって、いくつもの小さな溶液を揃えたりして実験を行ないました。もちろん、あまり危険な実験はできませんでしたが。こうした実験をした一つの目的は、インクを作ることでした。隣にいたお医者さんが先生代わりになっていろいろ指導してくれました。私が当時書いていた「残留日誌」はみなこのインクを使って書いたものです。
 47年には日本人の間でも夜の「学習会」が始まっていました。これは中国共産党の主導によるもので、中国語で「坦白運動」といっていましたが、お互い同士相互の批判と自分の犯した誤りを告白する自己批判の会でした。私はまだ鉄道の職員ではありませんから、その対象にはならなかったですが、これは強烈でした。一番気の毒だったのは、機関区の人で、私たちに授業をしてくれていたSさんでした。この人が壇上に座らされて、私たちからみると“吊るし上げ”としか思えないようなことをされていました。批判される理由を聞いていても理由があるとは思えないようなものでした。ところが、Sさんは自己批判を迫られ、最後は“愛の鉄拳”だなどといって制裁を加えられていました。Sさんは大学を出た人で教養もあり素晴らしい人でした。このように壇上に上げられて自己批判を強要された人が何人かいました。
 これは、延安からやってきたと思われる日本人の指導員であったTさんが指導していたようです。鉄道の宿舎のなかにも何人か共産党員になったと思われる人がいましたが、表立った活動はしていませんでした。
 当時の教育方法は、八路軍のやり方を踏襲したものでしょうが、歌で覚えさせるやり方をとっていました。革命歌であるとか毛沢東を讃える歌であるとか、それらを覚えることによって思想を身に着けさせようとしていました。八路軍では例の「三大規律・八項注意」も歌で覚えさせていましたから。

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