logo

オーラルヒストリーとは お知らせ 「戦中・戦後を中国で生きた日本人」について インタビューリスト 関連資料

インタビューリスト


山東半島に渡った満鉄技術者たち 第1回

はじめに
米濱泰英
 
 敗戦から一年近く経った1946年(昭和21)7月、いまだ日本への帰国の目処が立たない大連で、満鉄中央試験所の所員たちが家族もろとも突然大連から姿を消すという事件が起こった。事態が明らかになってみると、この失踪事件は、中国共産党(以下「中共」と略記(注))が山東省に科学研究機関を創設する計画を立て、日本人技術者たちの協力を秘かに要請していたものであることが分かった。この要請に応じた人たちは、7月27日、夜の明けきらぬ未明ソ連軍管理下にある大連港を脱出し、山東地区へ向った。その数は技術者32人、家族を含めると127人にのぼった。
 
 満鉄中央試験所(以下「中試」と略記)は、満鉄付属の機関であったが、科学・技術各分野のエキスパート600人を擁する巨大な研究機関で、規模といい研究所の性格といい、内地の理化学研究所(理研)に匹敵するといわれていた。
 理研は基礎研究を主眼としていたが、中試の方は基礎研究だけではなく、研究成果を実際に応用する工業化研究もやり、そこで見通しのついたものは、実際に工場を建設し、生産までもっていった。つまり、資源開発から生産までの一貫した研究を行っていたのである。
 
 戦前に中試が挙げた業績については、杉田望『満鉄中央試験所――大陸に夢を賭けた男たち』(講談社、1990年)に精しく書かれているが、大豆油の抽出やオイルシェールの開発、石炭の液化など、当時の時代要請に応えた華々しいものがあった。1986年に日本機械工業連合会が出したレポートは、中試を、「単に満鉄の研究機関にとどまらず、東洋における科学技術の殿堂として誇りうるまでに発展した」(『満鉄中央試験所の活動』)と総括しているほどである。
 山東に脱出した技術者の一人である佐竹義継は、中試の辞令を受けたときの感激を、次のように語っている。
 「中央試験所、それは私の夢にまで見た理想の研究機関で、一流大学のエリートでない限り、そこの研究者にはなれないと聞いていた。」(佐竹義継『ドキュメンタリー自叙伝 貧しい科学者の一灯』私家版、1985年)
 ところで、この中試の場合もそうであったが、戦前の中国で、日本が経営していた企業や研究所の要職はすべて日本人が独占していた。敗戦で日本人が一斉に引揚げてしまうと、これらの企業や研究機関は活動が止まってしまうのである。
 そこで、中国としては、中国人の技術者が成長するまでの一時期、日本人技術者に残留してもらわなければいけない――これは、国民党であれ共産党であれ、将来の国家建設を考える立場にある者にとっては、切実・深刻な問題であった。
 
 "科学技術の殿堂"と謳われた中試は、ソ連も中国も戦後いち早く注目するところとなっていた。このように期待された研究所の技術者たちが、ある日大量に蒸発してしまったのである。
 山東へ脱出した人たちの回想記として私が目にすることができた主なものは、阿部良之助『招かれざる国賓』(ダイヤモンド社、1949年)、井口俊夫「ダモーイ」(太陽油脂社内報『太陽』に1965年より69年まで55回連載)、佐竹義継『ドキュメンタリー自叙伝 貧しい科学者の一灯』(私家版、1985年)、および石黒恵智『北斗星下の流浪』(謙光社、1975年)である。

文字サイズ
文字サイズはこちらでも変えられます


お知らせ | プライバシーポリシー | お問い合わせ



Copyright (C) 2007-2009 OralHistoryProject Ltd, All Rights Reserved.