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山東半島に渡った満鉄技術者たち 第13回

12 流浪のはじまり

 石黒夫人によれば、一緒に出発したのは「佐竹、工、宮原、橋本、横山、小森、古賀、石黒ほか数家族」であったという。これら姓のみ記されている人たちについて、筆者の知りえたところを、ここで補足しておきたい。

 

佐竹はすでに前の部分で引用している佐竹義継である。彼は中試の有機化学課の所員で井口俊夫が主任を務める「一般有機化学研究室」に所属していた。薬学の専家であった佐竹は、内戦下で大いに期待されるところとなり、このあとすぐに石黒たち一行と別れ、観水という八路軍の後勤部のあるところへ行った。(後勤部は八路軍のなかで物資の補給や病人・負傷者の世話をする後方部署)。彼はここで、製薬工場の「一等研究指導員」という肩書きを与えられた。
 戦況がますます激しくなっていくなか、山東にやってきた中試所員の大半は、翌年再び東北へ送り帰されたが、佐竹は山東に留められた。その後、妻は出産のため八路軍の野戦病院に入り、3人の子供たちは安全なところで面倒をみるからと八路軍に引き取られ、家族が別れ別れに生活する状態が続いた。一家が揃って生活できるようになったのは、人民共和国の成立が宣言される1949年に入ってからであった。佐竹は、朝鮮戦争が終結した後の1953年(昭和28)に帰国している。

 晩年の著書『ドキュメンタリー自叙伝 貧しい科学者の一灯』に付された履歴によると、佐竹は帰国後、厚生省の厚生技官、佐賀家政大学教授、西九州大学副学長を歴任している。

 工(たくみ)は工静男である。中試では有機化学課の「油脂研究室」に所属していた。夫人の良子も中試・農産化学課の所員で、夫婦でこの山東行きに参加していた。
 かつて中試所長を務めた佐藤正典の自伝『一科学者の回想』(第6回で紹介)には、中試の元所員たちの昭和46年(1971)時点における勤め先と役職が記録されている。それによると、工は昭和46年には日揮ユニバーサルの副社長の職にあった。

 宮原は宮原泰幸で、中試では農産化学課の「一般農産化学研究室」に所属していた。彼は工静男とともに、莱陽城南村にある膠東農場に行き、そこで殺虫剤や除草剤などの農薬の試験製造に携わった。彼は佐竹と同様、1953年に帰国するまでの8年間を山東で送ったが、内戦下の山東で大変な辛酸を嘗めた。(宮原は晩年『中試会会報』第7号(1981年)に山東での思い出に言及しているので、後でまた取上げたい。)
上記の『一科学者の回想』によれば、昭和46年における宮原の勤務先・役職は北興化学工業(株)特許部長であった。

 以上の佐竹、工、宮原の3氏は、石黒たち一行と別行動をとらされることになったが、上述のごとく、佐竹は観水にある八路軍の後勤部に行き、工、宮原は莱陽城南村の膠東農場に赴任した。なお、石黒夫人の上記引用のなかには出ていないが、有機化学課の渡辺勅雄も工、宮原と一緒に膠東農場に赴任した。

 橋本は橋本国重で、中試・燃料課の所員である。山東では同じ燃料課の石黒兄弟と一緒に移動した。内戦の激化で翌1947年再び東北に引き返すことになったものの、さらに東北各地の工場を転々とし、最後は瀋陽に落ちついた。橋本も1953年の帰国組である。帰国後は日本揮発油(株)に勤務し、昭和46年には取締役原子力部長の職にあった。

 横山は横山修三。中試・有機化学課の所員である。帰国後の昭和46年には静岡大学工学部教授の職にあった。

 小森は小森正三。古賀は古賀政治。二人とも中試・燃料課の所員で、阿部良之助の下で働いていた。

 ところで、阿部とともに玲瓏金鉱に残された人たちは、中国人学生の教育を依頼され、学生に講義をすることで日を送っていた。講義の分担は、次のようであった。化学概説を阿部良之助、物理実験を井口俊夫、製図を高木智雄、金鉱分析を岡田寛二、金の製錬を緑川林造と亥川繁好、修理工場を大槻茂寿と笠原義雄、が担当した。


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