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筒井重雄氏 第6回:9.終戦〜10.満洲へ

9 終戦

 「8月15日の日本の無条件降伏とともに、私は再び魯中支部に戻ってきました。そして八路軍の部隊に付いて張店(現淄博(しはく))へ行きました。日本は無条件降伏をしたとはいっても、軍は武装解除していませんし、国民党と共産党の内戦が早くも始まっていました。私は前線工作に出ましたが、ここで生死を分かつような体験を三回しました。
 張店には日本の領事館がありましたが、その領事館を通じて日本人にビラを配ろうと計画しました。私は解放連盟の村井君と百姓姿に変装して出かけましたが、領事館に行くにはどうしても張店の駅を通らなければなりません。ところが、国民党の兵隊が警戒していてなかなか入れないのです。やっと通路を見つけて入ろうとしたら、国民党の兵士がやって来るではないですか。慌てて伏せましたが、その兵士は我々の5メートルぐらいのところで引き返して行きましたので、胸を撫で下ろしました。
 ようやく領事館にたどり着いて、日本人に配ってほしいとビラを渡したのですが、領事さんは意外と気持ちよく受け取ってくれました。
 ビラにはこんなことを書いていました。「私たちは日本人民解放連盟の者です。八路軍は武器を捨てた人に対しては、生命の安全を保障します。国民党地区は避けて青島に行ってください。云々」
 帰るときは警戒がいっそう厳しくなっていました。駅の構内には太い材木が山のように積み上げられていましたので、その材木を上がったり降りたりして塀に近づきました。その塀を越えようとしたわけですが、見るとバラの鉄線が張ってあります。1箇所なんとか越えられそうなところを見つけて越えようとしたところ、鉄線に空き缶が付けてあって、それがガラガラ鳴り出したのです。我々は慌てて飛び降りましたが、塀の中から、「誰だ、誰だ」という声がしだして、我々の方に向かってドーン、ドーンと発砲してきました。闇夜でしたから、音を立てないようにその場を離れて、根拠地に無事たどり着くことができました。」

――日本軍に武装解除を説得に行かれたのもこの時期ですね。

 「先ほども言いましたように、日本は無条件降伏をしたにもかかわらず、武装解除をしていませんでした。国際的には、日本軍と戦っているのは国民党の軍隊ということになっていましたが、国民党軍は重慶や成都の方へ撤退していました。実際に第一線で戦ったのは共産党八路軍だったのです。ですから、武装解除は当然八路軍がやるべきであったのです。
 私は日本軍にそのことを説得するために談判に出掛けました。行ったところは、日本人の居留民もたくさんいた淄川(しせん)炭鉱と博山炭鉱を警備している部隊でした。私は中国人の農民と一緒に、自分も農民の服装をして行きました。「私は日本人民解放連盟から来たものですが、責任者とお話がしたい」と言うと、曹長が出てきて、「隊長は今大隊本部の方へ行って留守なので、連絡をするから待ってください」と言います。このとき見た兵舎の中の乱雑なのには驚きました。裸で碁を打ってる者あり、寝そべって本を読む者あり、毛布をかぶって寝ている者あり、といった有様で、日本の軍隊もこんなになってしまったのかと愕然としました。
 隊長からは、大隊本部まで来るようにとの返事でした。私は最初に生命の安全を要求しましたら、本部までの往復に警備の兵隊を10名付けてくれました。私と同じような使命を受けて、益都の日本軍に談判に行った浜田君は、ついに戻ってきませんでした。彼は恐らく日本軍に殺されたものと思います。
 私は大隊長とじきじきに談判をはじめました。「私は八路軍の代表として、日本軍の武装解除の要求に来ました。八路軍はすでに3個師団の兵力をもって包囲しています。もしここで戦火を交えて多くの犠牲者が出るようなことがあれば、その責任はすべて大隊長にあります。よくお考えになってご返事ください。」大隊長はしばらく考えていたが、「わかりました。明日正午武装解除に応じます」と言いました。私は八路軍の前線司令部に戻ってそのことを報告しました。」

――武装解除は行われたのでしょうか。

 「この談判のあと、日本軍がそのまま武装解除にでるかどうか警戒していましたら、夜になって急に行動を開始したとの情報が入ってきました。後でわかったことですが、大隊長は私に返答したあと、旅団本部に問い合わせたところ、「早急に済南に集結せよ」との命令を受けて、全部隊を戦闘配置につかせ移動を開始したようです。八路軍もある程度予想していましたので、すぐに包囲しました。
 私たち解放連盟の者は、日本軍に近づき、メガフォンをもって呼びかけました。「日本は8月15日に無条件降伏しました。戦争は終わりました。今死んだら犬死です。お父さんお母さんは、諸君が無事帰ってくるのを待っています。」我々は真っ暗闇のなかで土嚢を積み上げて、そこからメガフォンだけ出して呼びかけました。「八路軍は武器を捨てた人には生命を保障します。銃を捨てて八路軍に来てください。無駄に命を捨てないでください。私たちも日本人です。」そうすると、「お前らのようなのがいるから、日本は負けたのだ」といって、こちらに機関銃でダダダーッと撃ってきました。この激しい銃撃を受けたとき、一人の中国人兵士が、「自分は死んでも、あなたたち日本人を死なせるわけにはいかない」と言って、私に覆いかぶさって自分の体を盾にして私を庇ってくれました。八路軍の敵軍工作部に所属の兵士でしたが、あの兵士がとった行動は私には忘れることができません。
 こんななかで、3名の日本兵が武器を投げ出して我々の側へ来ました。その中に湯本利市さんもいました。
 淄川炭鉱には日本人の居留民がたくさんいましたが、この戦闘の間ずっと地下室に集まって、震えながら事態の成り行きを見ていました。私たちが八路軍の軍服姿で入っていくと、何をされるのかと下を向いておろおろしていました。私はその人たちに「私は日本人です。解放連盟の者ですが、絶対あなたたちを殺すことはないから安心してください」と言いましたら、話を聞いて、ほっとして泣き出す人もいました。」


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