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山下正男氏 第8回:15.残留者の編成〜16.三人小組

15 残留者の編成

――みんな心のなかでは早く日本に帰りたいと思っているでしょうから、残す人間を指名するというのは一番嫌な仕事だということはよく理解できます。この中隊長もずるい人ですね。

 私の興奮はなかなか収まりませんでしたけれども、その日班長たちに集まってもらい、昨日の将校会議の内容を伝え、残留させる兵士の人選について相談しました。
 私が残留を決意した胸のうちを率直に話しますと、班長たちはお互いに顔を見合わせました。誰もが緊張の面持ちで、しばらく沈黙がつづきました。
 先任班長の岡本道郎軍曹は、武術・指揮能力ともに抜群で、部下思いの下士官でしたが、苦悩に満ちた表情で、「兵隊たちだけを残すわけにはいかない。私も残る」と言ってくれました。
 結局、岡本軍曹以下4名の班長が残ってくれることになりました。
 私は救われたような気持ちで、岡本軍曹の手を堅く握りました。
 さて、残留させる兵士の人選をどうするかです。
 私のような新参の小隊長がよその小隊に行って、古参兵に「残れ」と言ったら、「俺たちはもういっぱいご奉公してきたんだ」と、あざ笑われるのが落ちです。
 結局、自分が預かっている初年兵教育中の若い兵士を道連れにするしかありません。班長たちと共に、一人ひとりの身上調査をおこない、からだの悪い者や一人息子などを除いて、あとは「軍命令」で26人を残しました。
 夜になると、紅顔の初年兵たちが次々と私の部屋に来て、いろいろと家庭の事情を訴え、「教官、帰国させてください」と泣きつくのです。弟のような彼らを慰め励まし、説得しているうちに、「俺だってつらいんだ!」と叫びたくなりました。
 数日かかって、ようやく残留隊の編成ができました。編成表を中隊長に提出した日の夕方、すっかり気が滅入っていると、幹部候補生同期の安田稔少尉から電話がかかってきました。安田は隣村の勲関(くんかん)の駅の警備隊長をしていました。
 「俺は残ることにした。山下、おまえはどうした?」「俺もだ」「そうか、仕方がないよな」
 安田も、私と同じ立場でした。予備士官学校時代枕を並べた安田も残るということで、私はいくらか慰められました。
 その翌日、安田少尉と連れ立って、布川大隊長の下に、残留の申告に行きました。
 布川大尉が、第244大隊の残留部隊を指揮することになっていました。予備役からきた年配で親分肌のこの隊長は、機嫌のいい調子で、私に「それじゃおまえ、あしたからでも本部へきて編成業務をやれ」と言いました。安田はその場で軍需官に決まりました。
 私は数日後、第3中隊から大隊本部に移り、各中隊からの残留者を、一つの宿舎に集結させるなど、残留部隊布川隊の編成業務を担当しました。
 布川隊は、発足の日から閻錫山軍第6特務団に編入されたことになりました。同時に全員が中国の姓名に変えて登録されました。私は、台湾台北省生まれの邱順麟(きゅうじゅんりん)ということになりました。名前を中国人名に変えなければ、国民政府に報告する際に日本人部隊であることがばれてしまうからです。

 この頃、日本軍は戦線を短縮して沁県を放棄し、いまは南溝がその第1線になっていました。布川隊はこの南溝の駅の左側の分哨陣地を警備していました。
 この一帯は山岳地帯ですから、冬は雪が膝を没するほどに積もります。太行の山々から陣地、鉄道、村落のすべてが白一色になります。
 46年3月に、この南溝の地を引き払って山を下ることになりました。残留を決めた者のなかから帰国組の説得によって脱落者が出はじめ、これを恐れた軍首脳部が、残留部隊と帰国部隊を分けることにしたのです。帰国部隊は楡次兵站基地に集結し、残留部隊は太原に集結することになりました。帰国組と残留組はこの南溝で別れることになりましたが、もうお互いあまり語り合おうとしませんでした。言いようのない重苦しい別れでした。
 残留がいよいよ決定的になると、たまらなく家が恋しくなりました。これはそのとき手帳に書き付けたものです。
 「太行の峰に登りて かざせども ふるさとは見えず 雁の飛びゆく」


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