――日本軍が駐屯しているところも、もう太原周辺しかないような感じですね。
残留日本軍だけではなく、閻錫山の軍隊もほとんどの地域でやられてしまっていましたから、生き残った部隊はみな太原に逃げ帰ってきて、次第に太原に籠城するような形勢になっていったのです。
48年10月になり、山西軍も籠城に備えるため食糧の確保が緊急の課題となってきました。そこで、10月5日、山西軍の6個師団が楡次南方の穀倉地帯に食糧調達に出向いていきました。
ところが、待ち受けていた解放軍に小店のあたりで2個師団が殲滅され、残る4個師団も包囲されて袋の鼠のようになってしまいました。
解放軍はそこを包囲したままで、別の部隊が、手薄になった太原を目指して津波のように殺到してきました。
太原は周囲を山に囲まれた盆地になっていますが、なかでも東山は戦略上の重要拠点です。その山裾に近い一連の丘陵に臥虎山(がこざん)、牛駝塞(ぎゅうださい)など4つの陣地がありました。残った日本軍の兵士たちもそれらの陣地で守備についていました。
首義門を出た太原城外の丘陵に双塔寺というお寺がありますが、その境内に厚い石で築かれた2基の高い塔が立っています。その塔の一つが守備軍の指揮所兼砲兵観測所になっていました。私は岩田司令のもとに毎日そこに詰めていました。
10月20日、その日私は体調を崩し、城内に帰って休めと岩田から言われ、宿舎に帰ってきたときでした。東山が危ないという知らせが入ってきました。牛駝塞の陣地にはかつての布川隊の戦友たちが立てこもっています。
私は、岩田に無断で牛駝塞に応援に駆けつけました。平地が尽きて東山にかかるあたりまで来ると、牛駝塞はつるべ撃ちのような砲火に曝されているのが目に入ってきました。
敵の砲門は60門以上あると思われましたが、ともかく間断なく撃ちこんでいます。それに対してわが方は10門そこそこの山砲で反撃しているのですから、まったく話になりません。
30分近く待っていると、ぴたりと砲声がやみました。そのすきに衛生兵とともに陣地にすべりこみました。頭から土埃をかぶった戦友たちが歓喜して私を迎えてくれました。
それから3日間私は陣地にとどまり、鉄槌を打つような砲撃をたっぷり味わいました。
夜に入ると砲撃がやみ、ほっと一息つきます。だが、それもつかの間、こんどは暗がりの前面の低地に解放軍の兵士たちがぞろぞろと下りて来ます。やがて谷いっぱい埋めてしまう感じです。こちらは一時も心を緩めるわけにはいきません。
すると、またあのメガホンの声が聞こえてきました。日本人民解放連盟の我々への呼び掛けです。
「兄弟たち、無益な戦争をやめて、こっちへこい」
「きみたちのほうでは、食糧もなくなっているではないか」
「きみたちは、いまさら誰のために死なねばならないのか。中国人民を苦しめている反動軍閥の閻錫山などのために、きみたちを国で待っている親兄弟を、なぜ悲しませなければならないのか」
私はその呼び掛けの道理に抗しがたく、耳をふさいでいたい気持ちになりました。
いよいよ3日目に、陣地の原形もなくなってしまうほどの猛砲撃のあと、雪崩のような突撃が襲ってきました。険しい傾斜に足掛かりを求めて這い上がってくる解放軍に、崖の上から手投げ弾を投げつけます。解放軍側の機関銃による密集射撃でやられる者と下には敵の死体とで、陣地のまわりは死体がうず高くなっていきました。
私は、塹壕の中から無我夢中で手投げ弾を投げつけていましたが、しまいには疲れ果ててしまい、坐り込んで弾の箱を抱えたまま、後ろ向きに放っていました。
そのうち、どうやら第1回の強襲だけはなんとか押し返すことができました。ほっと一息つきかけたところに、後方陣地から司令部の使者がやってきて、岩田司令が私にすぐもどってこいと命令していると言うのです。
司令部に駆けつけてみると、岩田はカンカンになっていました。
「ばかやろう。つまらぬ義理立てしやがって。戦争ってな、そんなもんじゃないぞ。あほうなまねをするな。」