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インタビューリスト

 日本では学生運動の全国組織である「社会科学連合会」(学連)が組織され(1924年)、京大のなかにも「京大社会科学研究会」が結成されて、活発な活動が行われていた。中国人留学生たちもその影響を受け、1927年、即ち亜農が京大に入学した年、「留日中華社会科学研究会」を組織し、ビラの蒐集や読書会をはじめた。これは日本の警察のマークするところとなった。
 翌年の1928年には、中国共産党の日本支部が京大の中に結成され、亜農はそれに加わって活動をはじめた。彼はこの頃中国人の留学生仲間3名で、農家の1階を借り共同生活をはじめていたが、そこには2,3日おきに特高がやって来たという。
 1929年4月16日、共産党員の全国的大検挙が行われ、日本共産党は壊滅的打撃を受けた(「4・16事件」)。しかし、中国人留学生の左翼組織には、このときにはまだ弾圧が及ばなかった。彼ら留学生は、7月に「中華留日反帝同盟」なる組織を作り、機関誌として『反帝戦線』を発行した
 そしてこの年の9月4日、東京銀座の街頭で日中双方の学生・労働者でデモ行進を計画したが、行進に移らない先にほとんど全員が検挙されてしまった。現場にいなかった留学生の共産党員も続々検挙され、李亜農もそのなかに入っていた。


 内務省警保局保安課外事係が昭和4年(1929)に作成した『中国共産党日本特別支部検挙事件』という60頁余りのガリ版刷の冊子がある。この外事係の調査によると、李亜農は日本共産党により組織された日本反帝同盟と中国共産党日本支部により組織された中華留日反帝同盟の間を結ぶ連絡員となっていたらしい。
 冊子によれば、捕まる前の8月27日、彼は東京に現れ、神田神保町の亀沢喫茶店で佐山という労働組合協議会の代表と会っている。彼はそこで佐山から、弾圧された後の日本共産党の内情を記しそれに対するコメントを求める書簡を、モスクワのプロフィンテルンに届けてほしいと依頼されたという。
 4月16日の大弾圧によって、日本共産党は壊滅され尽くして積極的活動分子はもはやいなくなったはずであったが、まだこのような活動が行われているという事実を警察側は重視し、冊子は次のように結論付けている。

 「本邦ニハ尚未ダ日本共産党ノ跡ヲ絶タズ 密カニコミンテルント通ジテ組織ノ再建ト拡大トヲ計レル徒ノ存在スルト共ニ 中国共産党ノ存在ガ此ノ計画ニ対シ有力ナル援助トナリ居ルヲ知ルニ足ルベシ」

 李亜農は検挙された後、警察署から刑務所に移され、そこに3年間未決のまま拘留された。収監中、彼は度重なる拷問を受けた。鼻から水を注ぎ込まれる拷問では、何度も気を失った。「拷問椅子」(鉄の鋲(びょう)を敷いた椅子)に正坐させられる拷問では、痛さで汗が珠のように滴り落ち、数日間はまっすぐ立つことができなかった。また、壁に向ってお尻を休みなく「口」の字型に動かすよう命じられる拷問(日本軍の発明になる)――これを1,2時間続けさせられると、へとへとになって、自分の汗で水浸しになった床に昏倒してしまうのであった。
 拘留は長期にわたり、度重なる拷問で彼の身体は衰弱していった。そして、ついに食べ物も喉を通らなくなってしまった。友人の于百渓が保釈願を出し、それが認められ仮釈放された。保釈から3日目、友人たちの助けを借り、学生服を脱いで背広に着替え、普通の旅行客を装って京都から神戸に出、そこから上海行きの定期船に乗った。――かくして、1916年から31年まで足掛け16年に及んだ日本での生活に終止符が打たれた。

 「中国に帰った頃、殆んど完全に中国語を忘れてしまっていて困りました」と、李亜農は阿部たちに語っている。それほど彼の日本語は達者であった。
 こうした日本体験を持つ人物の、帰国後の足跡もたいへん興味深いものであるが、あまり詳しく言及することはこの連載のバランスを失することになろう。したがって、阿部たちに出会うまでのことをごく簡単に記しておきたい。

 帰国した李亜農は、1933年から4年間近く北京の中法大学その他の大学で教鞭をとり、主に哲学を講じた。その後上海に移り、コント図書館で甲骨文や金文の研究に打ち込んだ。この図書館は、フランス人が金を出して建てたものであるが、中国古代史研究の有力な拠点となっていた。ここでの古代史研究の成果はやがて次々著作として刊行された。
 日中戦争がはじまると、彼は書斎に安閑と腰を落着けていられなくなり、蘇北抗日根拠地の新四軍に身を投じた。
 日中戦争では、中国共産党はいち早く日本兵捕虜に対する対策を打ち出していた。それは、一言で言えば、「日本兵捕虜を殺してはいけない。捕虜を優遇せよ!」という政策である。これを朱徳・八路軍総司令の通達として、中国全土の八路軍・新四軍に向けて発したのである。
 新四軍の軍長・陳毅将軍は李亜農を新四軍政治部敵軍工作部の副部長に任命した。「敵軍工作部」(敵工部)の重要な仕事の一つは捕虜対策である。日本人の習慣・人情に通じ、日本人の心理を一番よく理解している李亜農ほど、これに打ってつけの人はいなかった。彼は自ら直接多くの日本兵捕虜に接したが、寛大で我慢強く熱意溢れるその接し方に、日本兵捕虜のなかには感動して反戦活動に加わる者が相当数いたという。
 一方、兄の李初梨は同じ時期、延安の中共中央にあってやはり八路軍の敵軍工作部副部長の職にあった。彼も自ら日本兵捕虜に接するとともに、延安にいた日本共産党代表・野坂参三の組織した元捕虜たちによる「日本人反戦同盟」(後の「日本人民解放連盟」)の指導・相談役ともなっていた。

 新四軍が本部を置く淮陰に華中建設大学が設立されると、李亜農はその校長に任命された。亜農は建設大学について長期的な構想を抱いていたそうである。大学は単に文科、理科だけあればいいというのではなく、工科大学(工学院)を設けて将来中国経済を建設する専門的人材を育てなければいけない、という意向を強く持っていた。
 彼が阿部や井口に招聘の働きかけをしたのは、単に困っている日本人を救済するためいというようなことではなかった。満鉄中央試験所で最先端の技術を開発してきた阿部と井口は、工科大学を作るという李亞農の構想にとって、正に最適の人材であったといえる。それは、大連に逃げ延びた後の混乱した状況下において、何としても2人を建設大学に留めようとしたことからも見て取ることができるのである。

 さて、この李亜農と対面した阿部良之助、井口俊夫はともに彼から強烈な印象を受けた。なかでも阿部が李について語っているところは、阿部一流の表現でなかなか面白い。

 「・・・李先生の兄さんも日本留学生である。中共が天下をとったらば、初代日本大使は、此の兄さんであろうと云われる位の日本通である。李先生も亦、日本大使か仏国大使として、好きな本でも読み度い念願を持つ程の文化人である。
 ・・・彼の中共における地位は高い。従卒が三十名位彼を守って居る。中共の職制はどんなものか知らないが、吾々の受ける感じでは、毛沢東主席、朱徳総司令、軍長級、李亜農級の順に見える。玲瓏金鉱の局長級は、李先生を師団長とすれば、中隊長位のものらしい。以て彼の地位の高さが想像できる。
 ・・・人物、頭脳と云う点に於いて、特に文化的教養に於いて、終戦後3年間に触れた中共人中の最たる者である。他の中共人、特に八路系の人々とは余りにも文化的面に於いて相違がある。従って、彼は、他の中共人から理解されずに終りはしまいかと思われる心配が多分に在る。若し、之が私の杞憂であるならば、近い将来に於いて、彼は中共文化工作の一方の大立者となる事を、私は疑わない。」(『招かれざる国賓』246~247頁)

 以上の李亜農の経歴については、主として上海社会科学院発行の季刊雑誌『史林』1986年第3期の巻頭に掲載された「光輝的一生――李亜農同志伝略」に拠った。彼は1962年、56歳の若さでこの世を去った。この略伝は、李亜農生誕八十年を記念して『史林』編輯部が作成したものあるが、歴史学の権威ある雑誌だけあって、それぞれの時期に亜農と関係した人物16人に取材している。例えば、日本で拷問を受けた頃のことについては、彼の保釈人になった元日本留学生・于百渓氏(李亜農より2歳下で三高、京大の後輩)から取材している。

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