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山東半島に渡った満鉄技術者たち 第26回

31 最後の山東半島脱出
 山東における内戦は、国民党軍が共産党軍をじりじりと半島の先の方まで追い詰める展開となっていた。阿部良之助たちが李亜農とともに威海衛の近くから船で大連に渡ったのは、1947年9月25日のことであった。
 山東半島の要衝とされた煙台が国民党軍の手に落ちたのは、それから間もない10月1日のことである。『中華民国史事紀要』は、次のような南京中央への10月1日付の電文を載せている。
 「国軍は本日午前九時三十分、魯東の煙台を回復した。第二十五師団黄百韜の部隊が先ず市内に進入した。」
 『史事紀要』は、この電文に次のような解説を付している。「煙台は膠東北部沿海の要衝であり、共産軍が叛乱を始めてからは、実に東北(満洲)と膠東を結ぶ交通の唯一の捷径(近道)になってきた。煙台は共産軍の重要拠点であるだけはなく、関外の共産軍兵員の糧食及び関内の共産軍の武器弾薬の積みおろしの拠点ともなってきた。共産軍の叛乱の成敗を決定づけるのは、延安以上にこの煙台である。」――中国本土から山海関を通って東北へ入る鉄道及び陸路は、中共にとっては途中国民党軍の妨害が入り、人員・物資の大量移動はほとんど不可能であった。戦後いち早く中共が山東半島を制圧し"解放区"にすると、煙台は、中共にとって東北地区と中国本土を結ぶ重要な交通の拠点となったのである。(なお、「関外」は、山海関の外、即ち東北(満洲)地区、「関内」は山海関以南の中国本土を指す。)

 しかし、山東半島で中共軍が一方的に敗北に追い込まれ、逃走して行ったわけではなかった。国民党軍が占領した町や村でも、中共軍が再び奪い返すといった攻防がまだまだ続いていたのである。
 日本人技術者たちが戦禍をさけて避難して行った林家村は棲霞県にあったが、この棲霞県は八路軍の牙城といわれ、日中戦争中も勇猛なる日本軍をもってしてもこの棲霞には入れなかったといわれるほど、周囲が自然の要塞となっている金城湯池の地であった。『史事紀要』によれば、1947年9月21日、国府軍がこの棲霞県を占領したとある。しかし、中共側の正史ともいえる『山東省志』大事記によれば、10月4日、「膠東地方部隊が棲霞県城を回復した」とある。これで見ると、棲霞県は一時国府軍が制圧したが、2週間ほどで八路軍が再び奪い返したようである。(国民党も共産党も、自軍の敗北のことは公式記録にほとんど載せていない。)

 石黒たちの一行は、こうした中を縫うようにして逃避行を続けていたのである。彼らは10月、山東半島を脱出すべく威海衛に向っていた。
 ところで、『史事紀要』は、10月5日の電文として、「国軍は威海衛、劉公島を回復した」として次のように記している。「我が海軍代総司令・桂永清は本日早朝軍艦多数を率いて威海衛を砲撃、陸戦隊が砲火の援護のもとに順次上陸。激戦の後、共産軍は東南方向に潰走。国軍の某部隊が5日午後市内に進入し、完全に威海衛市を占領した。」

 威海衛は煙台と並ぶ大きな港であり、国民党軍は軍艦を用いて海から攻撃をしてきたのである。この威海衛に石黒たちが入ったのがいつであったのか、正確な月日は分からない。恐らく10月下旬の頃と思われるが、その時この地はまた共産軍が再び奪い返していたのではなかろうか。(『山東省志』大事記には、この前後の威海衛に関する記事は見当たらない。)
 彼らの一行は、威海衛の海岸のホテルに案内された。

 ≪海辺の立派なホテルに一行は泊ることになった。辺鄙な片田舎から急に立派なホテルに泊るとは、まるで夢でも見ているようだ。・・・このホテルだって情勢が落ちついている時だったらさぞ活況を呈していたのであろう。しかし、非常時である現在、このホテルは閉鎖されたままだった。従業員は一人もおらず、しーんと静まりかえってっていた。≫(『北斗星下の流浪』109〜110頁)

 何日かこのホテルで過したが、一歩外に出てみると、海からの攻撃に備えて、八路軍の兵士たちが行き交っていた。数日後、大連行きのポンポン船がやってきた。彼らの荷物は兵士たちによって、すでに船に積み込まれていた。見ると、人は乗っていないのに、荷物の重さのためなのか、船体は随分沈んでいる。石黒夫人は思わず、「大丈夫かしら。沈まないかしら」と夫にささやくと、「そうだなあ」と心配そうに夫も首をかしげていた。
 不安を抱きながらも、みんな乗りこんで船は動き出した。ところが、港の中をいくらも進んでいないとき、遠く洋上をじっと見ていた兵士が、突然顔色を変えて、船長に引き返しを命じた。港外に敵艦が数隻、港を取り巻くようにして接近して来ているというのである。
 船は元の桟橋へと逆戻りをし、荷物を船に残したままみな下船させられた。「これから安全な場所に待避します」と言う兵士に案内され、街はずれの大きな碑が立っている物陰に隠れるようにして、成行きを見守った。しばらくすると、案内の兵士は、「ここも危ないかもしれません。もっと安全な場所へ移りましょう」といって、どんどん港から離れていった。学校のような建物の蔭にじっと身を潜めていたが、そのうち遠くで砲声が響いてきた。

 どれほど時間がたったかわからない。様子を見に行っていた兵士が引き返してきて、「敵艦は去りました。もう大丈夫です。最初に居た場所は艦砲射撃を受けて、数発の弾が当っていました」と報告した。前の場所にいたら、きっと犠牲者が出ていたかもしれない、とみんな胸を撫で下ろした。
 彼らは、内陸の方へと移動をはじめた。歩いていると、威海衛の街がもうもうと黒煙を立てているのが見られた。激しい艦砲射撃を受けて、市内のあちこちで火災が起っているようであった。国民党軍の地上部隊もまた威海衛に近づいているのであろうか、内陸へ内陸へと逃避行がはじまった。――かくして、石黒たち一行の大連渡航は、一先ず失敗に終ったのである。

 今度の移動は、至る所に壕が掘られ、地雷が埋めてあるような危険なところを縫って行った。それらの地雷は味方が埋めたもので、彼ら兵士には何か目印があるらしく、「そこは地雷が埋めてある」と注意を喚起し、歩く道を指示してくれた。ただ、注意や誘導を受けても、やはり恐怖と不安が付きまとい緊張の連続であった。
 ようやく危険地帯を脱して、きれいな蓮の花が咲いている池のそばに出た。ホッと一息つきかけたとき、中共側から、「この先、男子と家族は別々に道を別れて移動します」と告げられた。これには、日本人の男たちは強硬に反対した。こんな危険な逃避行で、幼い子供や女だけにされたら、どんな事態に陥らないとも限らない。なぜそのような別行動をしなければならないのか、その理由を尋ねても、中共側はいつものように、「なにも心配いりません」としか言わない。男たちは頑強に反対したので、中共側も折れて、男子3人くらいは家族の付き添いとして行ってよいということになった。
 家族が別々に行動するのは、この逃避行で初めてのことであったので、みな不安に襲われたのである。石黒夫人は書いている。

 ≪"これが今はの別れになるのではないか・・・"と不安な気持を抑えることができなかった。中共側を八分ぐらい信頼していても、二分ぐらいの不安はたえずつきまとった。≫(同上書、117頁)

 2日後、岩肌の美しい山々にすっぽりと囲まれた、谷あいの静かな村に入った。嬉しいことに、ここで別れた夫たちと合流できたのである。
 この村は、地理的条件に恵まれていて、飛行機からも死角になっており、爆撃もないとのことであった。近くには滝もあり、きれいな流れで村の婦人たちが洗濯をしている。日本のそばによく似たそうめんが、ことのほか美味で、原料を尋ねると、椎の実の粉から作るということであった。彼らは、この平和な村で数日間を過した。


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