前のページ | インタビューリストTOP | 第6回へ
――山東の日本人労農学校(中国では工農学校)には、その後いらっしゃったわけですか。 「これ以後、私は夜の学習会だけではなく、解放連盟の昼間の活動にも参加するようになりました。ある日、小島さんから、労農学校に行ってみないかと言われました。私自身も、もっと土台からしっかり勉強したいと思っていましたから、行くことにしたのです。 来てみると、学校といっても校舎があるわけでなく、村のあちこちの農家の家の一部を借りて、分散して生活しているわけです。だから、みんなが集まる必要があるときには笛で合図をするようにしていて、ピーッと鳴ったら食事だとか、ピー、ピーッと二つ鳴ったら学習会の合図であるとか決めてやっていました。 生徒は数十人いたと思いますが、これまでいた解放連盟のようにみんなが纏まっているというのではなく、いろいろな人がいました。私は魯中支部からきた者として紹介され、一つの班に入れられました。 そんなある日、私は校長の本橋さんと教務主任の国保さんから呼ばれて、一つの仕事を与えられることになりました。それは、一言で言ってしまえば、スパイの調査ということでした。この学校の生徒には、戦闘で捕虜になった者や、日本軍から逃げてきたという者や、いろいろな人間がいました。日本軍は絶えずここにスパイを送り込もうとしていましたから、こういう問題が絶えず起こっていたようです。 私が調査を依頼されたのは、同じ班の一人で日本軍の警備隊から脱走してきたという男でした。その男は、ここへ来るなり日本の軍隊の悪口を言っているということでした。しかし、実際の行動を見ていると、積極的に反戦活動をしようとするような態度はまったく見えないというのです。どうも言うことと行動が一致しない、という。 しかし、その男の調査を私にどうして頼むのか。ここへ来て間もない私自身が班長や教務主任から信頼されていることはありえないです。どうも、これは、この男の調査と共に、私自身がどれだけ信頼できる人間か試そうという、二つの目的でこういう任務を与えようとしているのだと思いました。わたしはそれを承知で引き受けることにしました。 労農学校は一つところに定着していません。日本の軍隊が近くに来たという情報が入ると、学校も移動することになります。こうした情報はだいたい行商人が教えてくれるのです。労農学校の移動のあった日、私は調査を依頼された男と身の上話を語り合いました。私の方から、「俺はかつて戦闘機のパイロットだったが、不時着してこんな様になってしまって残念でたまらない。いつかは日本軍に戻りたいと思っている」と言いました。そうしたら彼の方もこんなことを言い出しました。「俺は今こうしているけれども、いつでも部隊に戻れば、別に咎められない立場にあるんだ。」また、こんなことも言いました。「俺たちが行動を始めたときは、道の木の枝や長い草を折って、ここを通ったということを日本軍に教えてやっているんだ。」そして「あんたのような人は、日本軍の部隊に帰っても大丈夫だよ」と。 労農学校は翌日からまた移動があったのですが、八路軍の兵士が革命歌を歌いながら先導して、我々がその後について行きます。私は、彼が昨日話したことは本当かどうか観察していましたが、確かに彼は木の枝を見つけては折り、長い草があるとそれを折ったりして歩いていました。私はこの一部始終を教務主任に報告しました。 新しい村で学習を進めているなかで、指導者の方から、我々の学校の中に特務がいるので、告白闘争を全校でやるようにという指示が出ました。今回は私が調査を依頼された男が対象になっていました。開かれた集会では、「日本帝国主義者に植え付けられた思想こそ我々の敵である」とか「個人を憎むわけではない、その心を憎むのだ」とか「大胆に告白せよ」といった発言とともに、彼についていろいろな矛盾点が指摘されました。彼はついに立ち上がって、「私は日本の特務として、今までこんな行動をとってきた」とこれまでのことを洗いざらい話したうえ、「しかし、学習と生活のなかで今までの自分の考えが誤りであることをはっきり知ることができた」と全校生徒の前に告白しました。そして更に付け加えてこんなことを言いました。「私と同じような反動的な行動をとり、私と同じような考えをもっている木暮さんもみんなの前で述べてください。」指導部のほうはすかさず、「木暮さんに対する闘争は、後でまた検討します」と言って、その日の闘争大会は終わりました。 ――この人はその後どうなったですか。 「まったくわかりません。その日以後彼とは顔を合わせる機会がありませんでした。そして、まもなく終戦になって労農学校も解散しました。この学校にいた人たちのその後の消息は、私は全然知らなかったのですが、昨年(2005年)9月、抗日戦争勝利60周年の記念大会に招待され、そのとき労農学校にいた当時の友人数人に60年ぶりに会って、なつかしく話し合いました。」 |
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